うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ベトナムを旅しながら、論語を読んでいた


わたしが初めてベトナムへ行ったのは2年前。そのとき、この国の人々の心は新旧の価値観がすてきなバランスで成り立っているな…、と感じました。
ベトナムでバスに乗ると、年長者はほぼ必ずといっていいほど若年者や子どもから席を譲られます。これが、すごくよかった。
旅の同行者(母)はこの恩恵を何度も受け、「日本人も(日本で)素直にありがとうと言って座ればいいのに、そうしないからややこしいことになる」というようなことをつぶやいていました。わたしも、そう思うのです。
この種のモヤモヤをわたしはずっと抱えていて、尊敬の意味とか本音なんてどうでもいいから、もう儀式としてそうしてしまえばいいのに…。と思うことがいろんな場面であります。席を譲られて「当然だ、えっへん」みたいな人もいるし、「いやいや、すまんねぇ」みたいな人もいる。でもそれは個人差・性質の差であって、そこから「こういう人もいるから」と一般化しようとしたり多様性の話にするのも、なんだか妙に思考の手順が多いと感じるのです。妊婦さんのマークにも、同じことを感じます。


ベトナムは、こういう慣習がばっちり残りつつも古臭くなく、ビジュアルのセンスがいい。
国としてはあのようなつらい戦争の歴史があって独立してのいまなのだけど、その指導者の存在もインドのガンジーとはまた違った存在感で、「ホーおじさん」なんですよね…。民衆の日常の延長にある力を信じている強さというか、現世利益的な価値観でありながらも、現世を信じる力を感じる。こういうバランスがすごく気になって、今年またベトナムへ行ったのでした。


今回は初日から毎晩、孔子の「論語」を読んでいました。夏目漱石の小説を読んでいるとたまに「天意」という言葉が出てくるのですが、それは神がかった意味合いに感じられるものではなくて、どこか人間社会の力の流れを信じようというような、そういうもの。
この「そういうもの」は以前ベトナムで感じた慣習と結びつくものがあり、そんな長い経緯がありつつの読書。


今日の写真はハノイにある文廟。別名、孔子廟。有名な観光地です。
現地にお住まいのヨガ仲間ナオミさんが「あそこなら周りにすてきな雑貨のお店もあるし、文廟に行きましょうか」と連れて行ってくれて、孔子廟であることもホテルに帰ってから知りました。
わたしは論語を読み始めてから数日、なんだか叱責されたような気持ちになる夢を立て続けに見ていました。この日の朝もそんな夢を見ていて、孔子像を「この人が、偉い人なのね〜」と本人と知らずに拝んで帰ってきて、わたしは自分の薄っぺらさを薄く薄くミルフィールのように重ねて今日もわたしがある! なんて思いながら過ごしていました。


夢を見るようになったのはここ数年で、それまでは毎日5時間くらいしか寝ていなかったので、ほとんど夢を見ませんでした。
叱責されたような気持ちになる夢というのは子どもの頃にはよくあって、わたしはあまり寝ていない時期になにかを忘れることができていたことに気づきました。
いまはそれも一周して、さらに別のことに気がついています。
それは、


 だれかを尊敬したい、という気持ちがあること


です。
これは帰依したいみたいな気持ちにも似ているので満たされたらやばいというか、なかなかこの日本社会とは折り合えない性質のものだと思うのですが、でも自分の中にこういう気持ちがあることを、あの夢の苦しさによって認めることができた。
同時にこれは、すごく危険な性質を持つものでもあると感じています。それは、「叱責されたくない」ということが行動のエネルギー源になってしまうこわさです。
帰国してからのわたしは今までどおり、いろんな人のいろんな部分を尊敬する気持ちの複雑なブレンドでできあがっています。南インドカレーの味のような感じです。ばちっとなにかが主張してくるわけではない、混沌のおいしさ。
この混沌のハーモニーでバランスを取りつつも、どこかに「寄りかかれるものなら、寄りかかってしまいたい」という心の芽があることを、以前よりも固形化された感情として、目を背けずにいられるようになったように思います。


論語は、いい感じでわたしを突き放してくれます。

二八(四〇七)
 先師がいわれた。――
「人が道を大きくするのであって、道が人を大きくするのではない。」

(解説)人なくして何の道ぞ、というのである。人をはなれて超越的に道というものがあり、その力が人を左右すると考えるのは、思考の遊戯であり、抽象概念に過ぎない。道が成るも成らぬも、すべては人の力だ、というのである。

思考の遊戯に陥っていると、置いていかれます。
こういうエネルギーを、ベトナムにいるとビシビシ、ぎらぎら感じます。
これは「粋」というのとはまた違うもので、抑制のセンスではない。なんというか、酸いも甘いも人間社会のドロドロしたものは知り尽くした上で、バイタルの使いかたのセンスがいい。ゴールを目指すのではなく、ただ気持ちよく回し続けることに価値観が置かれているような。
この感じは、なんなのだろう。


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