わたしはヨガクラスで手本を示しながら説明するときに、よく「念写してね」と言います。言葉の情報以前の「視覚で形をとらえ、再現のために記憶する」という認識機能を重視しています。(「念写」といっても霊的な意味で言っているわけではありません)
これは学校教育の影響なのかわかりませんが、「手の指をしっかり握りあう」「膝を伸ばす」などの言葉のインプットに対して「手もしっかり握ってるし、膝も伸ばしているのに…」という態度というのが、たまに発生してしまうことがあります。この思考になっているときは自分のヨガではない比率が高まってしまって、いつの間にか「目の前の人に頭の中を示すヨガ」のようになっていきます。(この感じは以前「お口のバンダ。ことばだけを崇めても、なにも起こらない」というタイトルで書きました)
アーサナの練習は、もし誰かがその形を見せてくれたり他の人の動作を見る機会があったら、「目の前の人の形をもらうヨガ」を深めるチャンスなので、なるべく頭の中の言葉は排除したほうが得というか、自分の知っている言葉や表現の数で制限をかけてしまうと、自分の想像の範囲のヨガになってしまうのがもったいない。
わたしはマントラの説明で同じようなことを話すのですが、日本語はもともと音の数がすごく少ないので、サンスクリット語の音を聴いて脳内でカタカナに変換すると、豊かな音の数をわざわざ少なくする作業を挟むことになります。音としてはかなり貧しい感じになります。アーサナも、同じように考えています。
ここからはヨガのマイルドなイメージと拮抗する話になりますが、「できなくてもいいんですよ」「競争じゃないんですよ」などとのスタンスとは別に、「形は形としてとらえないと、完成形をめざせない」という圧倒的な前提があります。なので、やっぱり「念写」はすごく大切と思うのです。目で見て、パシャッと写真を撮るように、形をとらえる。
わたしは倒立の説明のときに、よくこのように一度止まって
「今のわたしを(左)回転させると、ナバーサナになりますよね。頭の中で、回転させてみてください」というような話をします。
みぞおちからつま先までの角度はナバーサナと一緒です。なのでナバーサナをシャープにできるようになると、倒立の経過でわたしが上の画像のようしている瞬間の「こらえ性」に必要な「お腹の下の奥のほうの力(前面)」「背中の真ん中よりすこし下の力(背面)」のアクセルとブレーキの感覚がつかめます。
このように、ほかのアーサナの練習で得た認識と感覚がほかのアーサナでいきることはすごく多いです。
念写 ⇒ 模写 ⇒ 経験 ⇒ 経験の記憶のストック ⇒ 他のアーサナとマッチング ⇒ 相乗効果のように上達
ひとつのアーサナだけが上手になることは少なくて、特に意識をしていなくても身体が勝手に必要な部分を稼動させる、その精度が上がるたびにヨガは楽しくなります。この繰り返しの後に、ブレイクスルーがやってくる。
こういう意識のはたらきは日常的なもので、読書をしながら記憶がフラッシュバックするのも似たような感覚です。
日々暮らしているといろいろなことがあるけれど、身体のメモリーはなるべく楽しいことに容量を使いたい。ヨガはシンプルにそれをやれる、ちょっと楽しい遊びのようなところがあります。