うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

相手の望みどおりに対応できないと、嫌われる?(夏目漱石「三四郎」読書会での演習より)


先日東京で久しぶりに夏目漱石「三四郎」の読書会をしました。
今回は主人公の三四郎に共感したというかたのコメントに一貫性があり、わたしもうなずくばかり。
そのかた(Iさん)は「5章」の以下の部分が「わたしも、そうだ」ということで共感したそうです。熊本から東京へ出てきた三四郎が、東京の知的で美しい女性との会話でひるむ場面。

女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子(ストレイ・シープ)―― わかって?」
三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間(はんま)であると自覚している。

三四郎はこういう場面になると… 以降は自分を実況して分析するような書き方。まるで自己分析のようなこんな書き方がおもしろい。
今年の前半に神戸で行った読書会でも三四郎のひとり相撲に激しく共感している人がいたのですが、わたしも主催者でありながら、まさにそのひとり。



 「望みどおりでない」ことと、「嫌われる」ことと、「好かれない」ことはすべて別のことなのに、
 どうして「望みに合わせない=嫌われる」というふうに、一直線につなげてしまうのだろうね…



Iさんにこのように問うと、周囲も同時に「う〜ん」となって、ものすごく暗〜い一体感(笑)。
別の宿題項目の文章でIさんが「正直で素直で、可愛げがあってわかりやすい人は、好かれる」と書かれていたので


 相手にとって望み通りでないというだけで、
 自分自身に対する姿勢としては「正直」で
 要するにそれは、「正直」なのだけど、
 意識として「正直」の主体と客体が、混ざっちゃってる。
 でもその主語は自分のものであるはずだと思うので、
 Iさんは、やはり正直なのだと思うのです。


そのときわたしは、そんな話をしました。


 
 「期待に応えたい」という気持はあっても、「それは、やりたくない」というとき、感情の主体が迷子になる。



わたしは自分に対して正直でいるということがどういうことなのか、自分自身がしょっちゅう迷子になっているくせに、別の人のことだと混同しているポイントが少し見えます。「三四郎」という小説は自己評価と他者評価の間で揺れ動くマインドを繊細に描いているので、小さい個所を抜き出して語りだすと話題が尽きません。
わたしもひとりのときはたいへん三四郎的なところがあるので、狂えそうで狂えない感じがいつもせつなくて、読んでいて少し苦しい小説です。毎回読みながら心の中で「お前は、わたしか!」と言いながら怒りながら抱きしめる。そして抱きしめた後に、またひとりで考えました。(よくやる、ひとり相撲の再試合



 「望みどおりでない」ことと、「嫌われる」ことと、「好かれない」ことはすべて別のことなのに、
 どうして「望みに合わせない=嫌われる」というふうに一直線につなげてしまうのだろう。



そういうときのわたしは、以下のどちらかです。

  • A:相手を不寛容で支配欲の強い人間とみなしている
  • B:じゅうぶんに想像力をはたらかせていない(相手の望みは複数あるかもしれない。そもそもそんなにないかもしれない)

Bは実際、以前知人に派手な会合に誘われたときに「わたしはそういう集まりの場は気分が重くなってしまう癖があって、誘ってくれたあなたを今後避けたくなってしまいそう。でもそれはいやだ」と言ったら、かえって関係がよくなったことがありました。相手も薄々そうだろうなとわかってて、いちおう形式上声をかけていただけ。相手の目的は「儀式を手順どおりにこなす」ことにありました。
Aはまるでジャイアンに接するときの、のび太のようです。でも普通に生活していたらジャイアンはいないんですよね。あたりまえなのだけど…。なのでこれもやはり、自分の中で作り上げるジャイアンです。


わたしは最近になって、やっと「ほんとうは、こう思っている」ということをたまに友人に伝えられるようになりました。中年になって、やっとです。
おそいのかな。わたしのなかの「のび太」は、いつかいなくなるかしら。