うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

すべて真夜中の恋人たち 川上未映子 著


くるしくて、くせになる。二度読むとさらに深まる。


「君をみてるとね、ほんとうにいらいらするんだよ」


これは、主人公の冬子が、高校生のときに同級生から放たれる言葉。この直前の会話がとても印象に残る。
冬子は、傷つかないための基本作法として「ほんとうのことを口にして、問い詰めたりしてはいけない」ということを知った。
この冬子が、大人になってから恋心のようなものに気づく。でも、「ほんとうのことを口にして、問い詰めたりしてはいけない」の抑制の反動で、急に問い詰めちゃったりしてこじれる。この物語は、見たいものだけを選んで見るような積極的狭量さがないと、恋愛になんて発展しないということを教えてくれる。


恋愛が描かれているけど、わたしには女性同士の会話が毎回刺激で、楽しみにしているテレビドラマを見るような感覚になった。登場する4人の女性すべてが印象に残る。
なかでも、冬子が陰であれば陽のように描かれる聖という名前の女性のセリフがあざやか。冬子と同じ感覚で、わたしも聖に惹かれる。そして聖に対して陰で指摘をする恭子のことばも、またしてもほんとうのことだったりする。
聖は自分で「土台がぐらぐら」だといい、「自分の感情のことが、そもそもよくわからない。他人の感情を引用しているような気持ちになることがある」という。これは何の引用なのかと考えることすらも引用のような気がするほど、奥にあるものを読もうとする。
陰も陽もない。みんな根が暗い。根は下に張るんだもんなぁ。


この小説は、二度読むと対比で描かれていることの多さに気づきます。
夏に干からびていくミミズを上から見る聖と、ライオンの不安の無い眠りを想像してみる冬子。スピリチュアルなことに「気づいた側」の人びとのスタンスに気持ち悪さを隠さない聖と、献血に誘ってきた人を見て「その笑顔はなぜか真っぷたつに割ったキャベツを思い起こさせた」と感じる冬子。意識の彩度や輪郭には差があるけれど、同じ色の絵の具を持っている二人。
終盤は、まるで夏目漱石の「こころ」の先生とKのような緊迫した会話が一瞬展開されます。

「なんでもいい」とわたしは言った。それから、もういい、と言って首をふった。聖は黙って、ため息をつき、ひとりごとのように言った。
「あなたをみてると、いらいらするのよ」

まただ。またこれだ。また、いらいらされた。
このあとの冬子の対応に、成熟のような変化のようなものが見られて、そこに力がある。
現代小説の中で、ここまでなにか深いところを動かされ、はげまされた感覚は初めて。過去の自分が冬子とともに成仏していくような、なのにまた仏壇から「どうも」と出てきても「まだ、いたの」と少し余裕を持って向き合うことができそうな。ずっと繰り返していくだろう未来の不安ごと抱きしめる、圧倒的な包容力を感じる。
さまざまな行動の描写やセリフのやりとりも目が離せない。少し酩酊していないと緊張して話をすることができない冬子が、好きな人から何度か「お水を飲んだほうが、よいのでは」と言われているのに、それはカッコ書きのセリフの中に入らない。その瞬間は、冬子が見たいものだけを選んで見る積極的狭量さを行使している瞬間。
がんばれ! と思いながら、その言葉がブーメランのように自分に返ってくる。


いろいろすごい小説。まだ読んでいない人は、ぜひ。


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