うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

便とメンタル


わたしはたまにアーサナのクラスで便(クロネコヤマトではなく、うんちのほう)の話をするのですが、ヨガの効果のもっともシンプルなものとして「便と一緒に、こころの便も出る」という実感があるので、「便が出やすい構成」でクラスを組み立てることがあります。
便については数々の自論を持っており、

  • 宿便は腹筋の一部
  • 宿便は仮想メモリのように肌の潤いをストックする
  • 腸が空っぽだと、怒る気力も出ない
  • 便が固まってから水を飲んでもあまり届かない。油や空気を入れるとよい


などあります。
すべて「わたしの腸の場合」です。最後の油と空気論などは、怪しい人と思われそうですが、ほんとうにそう思っています。
宿便についてはフルマラソンに出ていた頃の現象と、大量に水を飲んでアーサナをして便を出すインドの修行法(シャンカプラクシャラナ)をやったときの経験からです。
腸が空っぽというのは、日本に居るとなかなか機会もないのですが、アジア旅行などに出かけますと、何も食べられない状態になることがあります。葉っぱ一枚でもそれが身体の中を通っていくのがわかるような「ガラスの胃腸」で、壊れやすいのみならず、まさに透けて見えるように感じます。
こういうときは、下半身のバンダが一瞬たりともゆるめられない状態で、意識の多くを肛門周辺に持っていかれるという寡占状態が起こります。
そうなると、ひどい目にあっても「あーごめん、いまね、怒る気力もないんだわ」と、なぜか慈悲深くなり、本気で「感情にさざ波ひとつない静寂」「プラーナからエネルギーを得る」という状況を追求する、熟練ヨギのようなメンタルを疑似体験することになります。
空中に浮いたらどうしようかと思うほどです。



 ウソです。いまのは盛りました。浮きません。(・ω<)



まあそんなこんなで、なんとなくスッキリしないメンタルは、物理的な「便」にソリューションの一翼があるのではないか、というのがわたしのひとつの考えです。
クラスが終わってバイバーイってしたら、またそれぞれが心を格納する肉体の器と折り合いをつけていくことになるわけですが、ヨガクラス中に腸にアプローチしておくことで、明日の朝までヨガが続くかもしれない。


 「家に着くまでが遠足だっ!」


じゃないけど


 「便を出すまでが練習だっ!」


と。
夕食前にヨガをすると、夕食で押し出されることも期待できます。感覚は眠っても、身体は活動しているのでね。


おしゃべりをするよりも、スッキリ度のウェイトがちがう。物質として重みがあるものは、いいよね。だいたい「うわ〜、めっちゃ快便だった☆」という瞬間に、愚痴っぽい話をする気分にはならないもんね。
便は愚痴を代弁してくれます。