「おとなの小論文教室。」「おとなの小論文教室。2」がとてもおもしろかったので、第三弾も読んでみました。
親しみやすい文章でありながら、思考停止はさせませんという内容で、「だよなぁ、だよなぁ」と心の中でうなずきながら読み、最後はかなり癒やされる。不思議なシリーズです。
今回いいなぁと思ったのは、こんなところ。
交通整理がいきとどいたもの ⇔ 雑
検証された静的なもの ⇔ まだ検証されていない動きつつあるもの
完成度の高いもの ⇔ 未完だが可能性のあるもの
わかりやすいもの ⇔ わかりにくいがリアリティのあるもの
役立つもの ⇔ 役には立たないが魅力あるもの
たとえば、そんなふうに、ふり幅のある表現を、自分の意志に応じて、行ったり来たり、柔軟に使い分けられるようになるといいなぁと思う。
(Lesson12 汚しのある表現 より)
整備すればするほどリアリティが無くなっていく寂しさってのが、あるんだよなぁ。役に立つかどうかもそのタイミングも、外に出したら読む側のものになるんですよね。
以下の箇所は、読んでピリッとしました。
外部とのやりとりで、傷ついて自信をなくしたり、逆に、ほめられて慢心してしまったりすると、ほんのちょっとだけ、「引いた視点」が鈍る。続くと、まるで生活習慣で、少しずつ背骨が曲がるように、自分でも気づかぬうちに、客観性を見失うことがある。
(Lesson15 自分の位置を発見する より)
わたしは「自分では気づかぬうちに」というエクスキューズをしないようにしたいと思っていて、たとえば「もし○○なのだとしたら、ごめんなさい」などの言いかたも避けたほうがいいのかな、と思うことがあります。やったことが消えるわけじゃないし、反応自体は自分ではなく相手の中で起こることだから。
批判に向き合う気持ちについても、悶々とすることをそのまま書かれています。
ひとつ、これだけは、と思ったのは、批判する人への反論のためにものを書かないようにしようということだ。
批判されたとき、とくに、自分という人間を非難されたら、「私はそんな人間じゃないんだ、もっと強いのよ、いい人間なのよ」ということを、自分の書くものを通して伝えて、批判者に言い返したくなるような心の動きはある。
でも、果たしてそれは、自分が言いたいことなのか?
「山田ズーニーは、いい人間です」なんて、そんなつまらないメッセージを言いたくて書いているんじゃない。
もっと伝えたいことがある。
だかた、批判を直視して、でも目先にとらわれない自分の志を遠くに見て、自分の「ずしん」にも耳を澄ませながら、批判とのつきあいを考えていきたいと思う。
(Lesson24 批判とどうつきあうか? より)
読む側としては、素敵だなぁと思っている人には、「それチンピラじゃん」という批判はスルーしてもらいたい。ケンカがコンテンツになっているような感じの文章って、読んでいるほうも黒い感情を引き出されるから。
このシリーズは読んでいると心がほぐれて、文章を書くことに前向きになれます。