うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

仏教は心の科学 アルボムッレ・スマナサーラ 著


先日行ったトークライブでその話法に感動し、本を読みたいと思っていたところ、帰って本棚を見たら一冊読んでいないものがありました。
スマナサーラさんは元の言語(おもにパーリ語)の意味を日本語に置き換えて話してくださいますが、これはズバッとくるものがないのだな、というときは英語も出てきたりする。そのときに「ああ、これはやっぱり、日本語で日常におちていない心のはたらきなんだ」というのがわかって、これがまた勉強になる。
この本もたくさんのトピックが扱われていますが、「削ぎ落としつつ、まろやか」な説明がたまりません。特に「神」「輪廻」「心」などの大きなものほど、こんなに身近なところから連れて行ってくれるのか! と驚く。
まえに日本語は心のはたらきを示す語が少ない、ということを書きましたが、スマナサーラさんの説明は格別にわかりやすいです。


たとえば…

「心」は「生命としてのいろいろな働き」にまとめて付けた名前です。いわばグループ名、名称です。
 ですから「心」と「見るという働き」の関係は、「リンゴ」と同じです。果物はちゃんと存在するものです。リンゴもバナナも桃も全部果物です。
 では「果物はリンゴ」ですか?「果物はバナナ」ですか?「果物は桃」ですか?
 そうではありませんね。「果物」はグループ名であって、リンゴやバナナだけを指すのではありません。
(138ページ 心は「知る」働き より)

出だしの部分だけの紹介です。興味のある人はこの本をまるごと読んで欲しいです。



仏教のドライさも、以下の説明でたいへん鮮やか。

輪廻転生なんて、それほど気持ちのよいものではないということです。頑張ったぶん、それが報われてうれしい、というような充実感も、喜びもありません。たんなるエネルギーの繰り返しです。一つのエネルギーが消えると、それに見合ったエネルギーがどこかに生まれてくる、というだけのことです。たんなるエネルギーの連続性であって、ただ連続していくだけなのです。こうした働きは、説明がとても難しいのですが。
(94ページ 輪廻はたんなるエネルギーの繰り返し より)

わたしがたまに「輪廻を信じるか」みたいな質問をされても「まあいいアイデアだと思ってる」みたいな答えかたしかできない理由が、まさにこういうことです。初期仏教ではサーンキヤのような「乗せもの」としてのリンガの存在すらも置かないんですね。この説明を読むと、「はたらき」を乗せるものが必要で、その象徴物がリンガかなという気もしてきた。「あらわれ」ではなく「あらわし」なのかも、とでもいうような。



神の概念の変化の歴史説明も、わかりやすい。

(大文字で始まるGod、小文字で始まり複数形にもなるgods、創造神の概念をわかりやすく説明した後に)
 さらにもう一歩進むと、一次元になります。「森羅万象すべては神である」「一切が如来である」という概念になるのです。「我々は神そのものだ。無知だからそれを知らないだけで、それに気付けば自分は神そのものであるということを悟る」という考えは、現在もまだ残っています。
 あと百年経てばどう変化するかわかりませんが、このような簡単な枠組みの中に、世界宗教のすべてが入っています。
(中略)ヒンドゥー教は西暦七世紀からいろいろなテキストが現れて、その頃から一元論の宗教に変化してきました。日本の大乗仏教も一元論ですね。「すべては仏様であり如来である」という考えです。宗教の歴史には、このような進化があるのです。
(22ページ 神の変化 より)

シャンカラ以降のヒンドゥーと大乗の一元論までの歴史が、ものすごく少ない文字数で、かなりわかりやすく要約されています。「神回」みたいな感じで神トピック、といいたいところなのですが、本当に神トピック(笑)。



教えの伝わっていきかたの点についても、たいへんおだやかな視点です。

 パーリ聖典には、「お釈迦さまは六年間苦行した」とは書かれていません。「真理とは何であろうかと六年間探検していた」というように書かれています。後世になって「六年間苦行しました」となったのです。それはやはり「苦行するのは偉い人だ」という人間の気持ちがあってのことでしょう。
(322ページ 梅干し一つ分のご飯もやめよう より)

人って、そういうものだから、と。



ほかにも、「人って、そいういうものだから」というものでグッときちゃった…

「頑張っている」というのは、怠ける人のずるい部分で、彼らはよく頑張ってしまうのです。それを見抜くことは、なかなかむずかしいものです。
(168ページ 「怠けたら、すべてダメ」 より)

思考停止することへの積極性、頑張りポーズに長けてしまうことも指摘する。


 私は人の性格を見る癖があります。人の性格は、身体の動きなどちょっとしたことを見ればわかります。話をする必要はありません。心でしか身体は動かせませんから、動きを見れば心が見えるのです。
(180ページ 人の性格は動きでわかる より)

肉体は心の容器なので、心にあわせて形を変えたり動いたりするんだよね…。



そしてなによりも、ここ!

「正直に生きたい」などとよく言っていますが、「正直に」「素直に」という言葉は曲者です。本当に人間が正直に生きることほど、危険なことはないのです。なぜなら「普通の人間の正直」は「貪瞋癡の感情で生きること」にほかならないからです。「正直は素晴らしい」と思ったら、とんでもない間違いなのです。
(215ページ 「普通の人の正直」は危険 より)

日本人は「リフレッシュ」という言葉を日常に落としているので、根がフレッシュだという幻想を抱いている。「リ」ってなんだ。



まだまだある。

 人間は、苦しみにしがみついて生きているのです。幸福をまったく見ようとせず、心はいつも「もうちょっとあればいい」と、何かを望んでいるのです。「もうちょっと」といっても、決まった幸福の基準があるわけではないでしょうに。
(266ページ 「もうちょっと」を求める病んだ心 より)

「もうちょっと」のゴールが定まっていないことをツッコむ。



仏教の話をしているけれど、仏教だけではないインドの思想の変遷も踏まえた内容です。
「無常」を包括的に、日本語で説明してもらえる。この感覚で、同時代に。こういうのをグローバルというのだろうなぁ。
ずっと手元に置いておきたい本です。