うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ふたりのロッテ  エーリヒ・ケストナー作 池田香代子 (翻訳)

子どもでいながら、おとなの事情も同時進行で読み取る感覚が子どもにはある。なぜなら、子どもだから。
子どもは生きていくために親に忖度するのが仕事だから。ケストナーはその前提を崩さない。まだ読んだのは二作目なのに、この物語でそれをありありと見せられました。

 

読者を下に設定しない前提での語り口という点では、物語の途中で突然こちらを向いて話しかけてくる江戸川乱歩や、ほかにもそういう作品はあるけれど、この『ふたりのロッテ』で作者が第5章で行うシャーリー・テンプルの話の引用は格別。

読者を絶対に下に設定しない、という信念とリスペクトがビシビシ伝わってくる。
この部分について気になって調べたら、なんとシャーリー・テンプルは実在の人物(有名な子役)で、1949年にこの本が出版された時もまだ21歳のティーン・アイドル。そんな現役バリバリの人物を例に出しながら、ケストナーは子どもにも人格があり尊厳があり思考も悲しみもあることを当然のこととして、子どもの隣に座って話すように説明する。
ものすごい話をする。

 尊敬するちいさな、そして大きな読者のみんな。

いまわたしは、その部分の出だしをタイピングで転記しただけで、大粒の涙が出てしまう。

 

みんながここを読んでいるとき、おとながうしろからのぞいて、「なんてやつだ! よくもまあ、こんなことを子どもにおしえるなんて」と言ったら、つぎのところを読んでやってほしい。

この一行の後からがすごくなる。ぜひ読んでほしいです。
しかも、この話をなんでしたのか、”うしろからのぞいたおとな” が「わからない」と言ったら、「ぼくからよろしくつたえてくれ」と、そこまでケアする。関係性把握能力と年齢は無関係である前提で、権威主義者に配慮するかのような、このユーモア!


ケストナーは「生きるために服従を選ぶ弱者の存在」という好都合ドラッグから抜けられなくなった人間を確実に意識して書いていて、そうじゃない大人もこの世にはいると子どもに伝えたかったのでしょう。そんな気持ちが全編に溢れてる。
(この物語はナチスにいつ殺されてもおかしくない時期に書かれ、当時は実際「ケストナーナチスに射殺された」というニュースが新聞に載ったこともあったそうです)

 

 

最後まで読んでからもう一度気になった箇所を読み返してみると、違う色に見えてくる。でも最初に読んだ瞬間と同じ、とてもしあわせな気持ちも必ず同時に起こる。ものすごい仕掛けです。


二度目に読むと、冒頭の第1章の、こんなちょっとした状況説明すら沁みてきます。

トゥルーデのボールは、空気がぬけちゃった。ブリギッテは、自分のボールを出さない。自分のロッカーにしまいこんで、しっかり鍵をかけている。ボールになにかあったらたいへんだから。そういう子って、いるものだ。

大人の世界でも「そういう人って、いるものだ」のはずなんですよね。なにかあったら大変と思う感覚は個人のもの。「なにか」や「大変」は個人の経験や記憶(あるいは妄想)に依存する。ケストナーの視点はここをずっと外さずに貫いていて、なにげに様々な境遇の人間のあり方を書いています。

 


この物語が映画用で、最初に書かれたのがシナリオだったというのも納得です。ヘンゼルとグレーテルの歌劇を鑑賞する登場人物たちと劇中物語がシンクロする第6章は、音と空間が絡まるイメージがしやすく映像的。あまりのうまさに唸ります。
第7章の ラズベリーに生クリームをかけたようなすばらしい週末” のエピソードは、「ラズベリーに生クリーム」と聞いただけで涙が出てくる。もうだめだ。

 


おしん』と『アルプスの少女ハイジ』と『クレイマー、クレイマー』と『生徒諸君!』の眼球の奥がぎゅーっと絞られる要素を凝縮して、最高に澄んだ水と完璧な火力で調理して仕上げたなにか、みたいなすごい物語。すごいものを読んでしまった。

 

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)