前に読んだ小説「ザビーナ―ユングとフロイトの運命を変えた女」の主人公が残した論文を読みました。この論文「生成の原因としての破壊」(翻訳:村本詔司)は秘密のシンメトリーという本に入っており、1912年『精神分析学・精神病理学年報』に収録されたものだそうです。
フロイトとユングの板挟みという複雑な状況の中で経験をもとに書き上げた論文には、のちに本人が進んでいく児童心理学につながる要素も見えます。
わたしは年齢に関係なく持ち続ける児童的な心をうまく発散させることが穏やかな老年期にシフトしていく鍵と思っているので、ザビーナ・シュピールラインの論文内容のいくつかがとても気になりました。
かなり鋭い指摘をされているように思います。
自我の内部で起こる退行の本質は、幼児期の喜ばしい体験を再体験したいという気持ちである。しかし、なぜ、幼児期の体験ではこんなにも快の面が強調されているのか。なぜ、わたしたちは「既知のものを再確認することの悦び」をおぼえるのか。なぜ、両親の権力をもはや感じなくなってかなり時間がたってからもなお、体験を修正するようにとわたしたちに要請する厳格な検閲が働くのか。なぜ、むしろいつも同じものを体験し、それを再生産しないのか。
それゆえ、忍耐願望(Beharrungswunsch)と相並んで、変容願望(Transformationswunsch)がわたしたちのなかに存在している。
(377ページ 第二章 個人心理の面からの考察 より)
わたしはかねてより「自分自身を躾けなければ!」と思うあの意識はなんだろうと不思議でならず、人間は放っておくと堕落するからと言いながらプラクティカルなものに熱中しようとするマゾ的な要素に誰か名前を付けてほしいと思ってきました。なのでザビーナがこの説明の流れで「忍耐願望」「変容願望」というものを並列してあげているところに「それ!」と膝を打つ思いです。
苦労をしなければ結果を得られないと、無条件でどこか納得しているあの感情はどこからやってくるのか。「おしん」で刷り込まれたのか? それにしても「おしん」はなぜこんなにも世界で受け入れられちゃってるの? と不思議でならなかったことへのヒントが書かれているように思いました。
第二章では、言葉にこだわればこだわるほど孤立していく法則、妥協と安心がトレードオフであるコミュニケーションの苦しみが淡々と書かれていて、その要約力に驚きます。
ある考えを語ったり、あるいは、ある観念を描く時、すでにわたしたちは一般化(Verallgemeinerung)を行っている。なぜなら、言葉は実際象徴だからである。まさに象徴の目的は、個人的なもの(das Personliche)を人間一般のものに、そして理解可能なものに形づくることであり、すなわち、個人的なものから個人的刻印を奪い取ることなのである。純粋に個人的なものは他人からけっして理解されることがない。ニーチェは力強い自我意識をもった人間であるが、彼が次のような結論に到達したことは何ら驚くに値しない。つまり、言葉は、自分と他人を混乱させるためにあるというのである。だが、それでも、もし自分の自我観念(Ichvorstellung)を犠牲にしてでも、種族観念(Artvorstellung)が形成されるならば、わたしたちは、話をすることで安心を覚えるのである。芸術家も、個人的なもの(das Individuelle)の代わりに、類型的なもの(das Typische)を創造する時、自分の「昇華の所産(Sublimationsprudukte)」に喜びを覚える。あらゆる観念は、いわば、同一の素材をではなく類似の素材を求めている。その中でこそ、その観念が解消され、変容されることが可能になるからである。この類似の素材は、同じ観念内容にもとづいている理解であり、これによって、他者はわたしたちの観念を受けとめるのである。
(378ページ 第二章 個人心理の面からの考察 より)
第二章はとにかく濃く引き込まれるのですが、さくっと言い切るところはこのようにさくっといく。
自我の外に存在する愛の対象を完全に否認したところで、せいぜい、自分が自分自身のリビドーの対象になり、そこから、自己破壊が生じるだけである。
(380ページ 第二章 個人心理の面からの考察 より)
「自己破壊」がザビーナ本人の場合はユングの言語感覚とのマッチングでうまくいったけれど、それまでの間に自分の毒が自分に回る感じを嫌というほど体験しているはず。そんな苦しい自己観察を重ねて客観視してこの一文にたどり着いたのだとしたら、これはすごく重い。
とくに第二章で多く語られているザビーナの論理の興味深いところは、自己保存欲動と種族保存欲動を以下のように切り分けて見ているところです。
自己保存欲動はポジティブなものからのみ成り立つ単純な欲動であるが、種族保存欲動は、古いものを溶解することによって新しいものを生じさせ、ポジティブな構成要素とともにネガティブな構成要素からも成り立っている。種族保存欲動は、その本質からしてアンビヴァレント(両価的)である。したがって、ポジティブな構成要素の興奮をも呼び醒まし、また、その逆も真である。自己保存欲動は、すでに存在している個体を異質な影響から守らなければならないという点で、「静的(statisch)」な欲動である。これにたいして、種族保存欲動は、個人の変化、「復活」を新しい形で追及する「動的(dynamisch)」な欲動である。いかなる変化も、古い状態を破壊しないことには生じえない。
(396ページ 第二章 個人心理の面からの考察 要約 より)
当時男性ばかりであった精神分析学者の世界では、こういう論じ方が新鮮に映ったのではないかと思います。
第三章は、神話を知らないとついていけない話になっていきます。それでも冒頭からしばらくは「これ、あるよな…」と思うこともあって、たぶんこうい考え方がのちのち東洋の思想に興味を深めていったユングとザビーナの意識の共通点じゃないか。そんなことを思いながら読みました。
夢や早発生痴呆の患者に関する経験から教えられることであるが、わたしたちの魂は、その深いところでは、現在の意識的な思考にもはや反応せず、直接には理解することができないような観念を蔵している。しかし、これらの観念は、わたしたちの祖先の意識には見出される。このことは、神話は精神の他の所産が証明してくれる。したがって、わたしたちの無意識の思考様式は、祖先の意識的な思考様式に対応している。遺伝(vererben)され、「対応する観念の形成へと通じていく思考様式(Denkweisen)」と言う代わりに、端的に、わたしは、相続(ererben)された「観念(Vorstellungen)」と言おう。
生命が四つの元素(地、水、火、空気)から発生するという観念は、すでに東方の象徴体系に見られる。本論文の目的上、大地と水の象徴体系における生と死を追求したいと思う。
(397ページ 第三章 神話における生と死 より)
このあとザビーナは他者の研究紹介で人間の形をした植物(空想上の生き物)の話を取り上げているのですが、まるで西遊記に出てくる「人参果」のよう。
ザビーナは運命論のようにモノゴトを語ることがありません。こういう段階がある、という観察の集積を要約する能力が高く、フロイトはそこを見抜いたのではないか。この論文にある「相続された観念」というのは人間を服従させるときにうまく使えてしまう力のことをも指しているように見えます。ここまでの観察眼を持った人が迫害されナチスに殺されるまでの間には、どんな思考があったのだろう。残念ながらそういう言葉までは残されていません。
自分が意識の修正を施した女性がこんなに鋭くて打てば何倍も響くような仕上がりを見せたら、そらユングも惚れるわ! こういう医師と患者の関係は転移とか逆転移とかいうようですが、修正し始めたらめちゃくちゃすごい歌唱力に仕上がった歌手の歌声に惚れるボイストレーナーのような気持ちで、ユングもこの論文を読んだのだろう…なんてことを勝手に想像しました。
▼この論文は以下の本に収録されていました
- 作者:アルド カロテヌート
- メディア: 単行本