うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分の中に発現した「イラッとness」に向き合う(夏目漱石「それから」読書会での演習より)

半年ぶりの夏目漱石読書会を終えて関西から戻ってきました。
読書会といっても実際はインド思想に登場する「こころのはたらき」を示すワードを使っての演習なので、文学的な深堀りを目的としたものではなく、多眼観察のような時間です。
「それから」は恋愛の描写がねっとりしているので、アハンカーラ中心のアジェンダに寄せることもできなくはないのですが、今回はブッディについて話すぞ! と決めて宿題も構成も考えていました。参加してくださったかたから「うわー」とか「いやぁぁぁ」とか「はずかしぃ〜」という反応が予想以上に早いタイミングで出て、ブーメランの軌道が点線で見える感覚を味わった人もいたかな。



ちなみに


絵はふまじめですが、読書会の本編に入る前に説明もしています。


この作品は主人公の性格に「現代人に共通する問題」がてんこ盛り。
なので、こんなことが起こります。



「この主人公、読んでいて、いちいちイライラして…」


「うん。その、イライラというのは…」



 と紐解いていく



 〜と、判断したのは誰なんだろう。

 〜と、予測がつくということは、経験したことがある感情。その持ち主は誰?



 (・・・話しながら、発し手にブーメランが戻っていく・・・)


「いやぁぁぁ。はずかしい…。これ、わたしのこと〜」


「そうなんだよねぇ」


「わたしも…」(←別の人も同じ現象に気づく)



となる。
まえに「イラッときたら、サーンキヤ」という回でも書きましたが、わたしは「いま自分がつかまえたその感情は、誰が見つけたんだっけ? なんで見つけたことを認識できるんだっけ?」ということを棚上げしないように、ちょっとだけ補正を入れるようにしています。わたしはこの機能(ブッディ・理性)の重要性をいいトシになるまで知らずに生きてきて、自分の感情を見るステップから逃げたまま「けしからん」という気持ちに変換してしまうことを、日常的にやってきました。
それをインド哲学の勉強を始めてからは少し分解できるようになってきたので、自分の性根の無知さを題材に再構成しています。読書会は、そのおすそ分けの場のような感じです。


わたしはより細かくそれを性質として認識共有するために「イラッとネス(ness)」とか「どんよりネス(ness)」のような言葉で説明します。同じ気持ちの種がなければそもそもイライラしないというのは、まえに【武田鉄矢「今朝の三枚おろし」についてのあれこれ】の「その2」に書いたことと同じ。こういう種類の自己批判的な気持ちを持つことで、不機嫌な老人にならずに生きていきたい。


文章をきっかけに自分の中に発現したものをありありと見るのは、けっこうしんどい行為です。なので「これはこういうことだと思う」なんて、自分の立場や主語を棚上げしてお行儀よく結論づけてみたり、文章の話をしているのに文学の話をしてみたり、「この作家の言いたかったことはきっと…」なんて聞かれてもいないのに講釈したりする。「あなた」が発現・発言する瞬間なのに。いまやっていることは義務教育の国語の授業でもないのに、「観念的にそれらしいムード」に受講する側の人が持っていこうとしてしまうことがある。優等生的な方向へ逃げることに対して日本の教育は寛容なので、ついそういうふうにしちゃうんですよね。
わたしがインドで受けた問答形式の哲学授業では「その問いは重要ではない」なんて感じでバッサリ斬られることがあり、そういうときの要件を思い返すと、どれも主体性を棚上げした文体の質問ばかりでした。ナマナマしい自分で学ばないと、バッサリやられる(この容赦ない感じは、日本では再現できない)。


この日は何人かから、オトナっぽい「ため息」が聞こえてきました。そういうため息を聞くと、「この人、けしからんですよね」「○○すべきじゃないですか、そうでしょ?」の、もう一歩先へいっしょに歩いていけた気持ちになります。なかには「この主人公のように気づかないふりをしているのも、わたし……」と絶句している人もいて、そういうときは、「痛そうだねぇ。知ってる〜。その道、わたしも通ってきたから」という気持ちになります。
この「けしからんですよね」で終わらせないことに近い意味の言葉に「apaisnam」という語(サンスクリット)があります。この言葉はバガヴァッド・ギーターの「16章2節」に出てくるのですが、これはまえに東京の読書会で掘り下げたことがあります(⇒こちらで詳述しています)。


京都・神戸から始まった読書会形式のヨガクラスも、早いもので2年が経ちました。
未整理の考察ストックがたくさんあるので、ぼちぼち紹介していきたいと思います。


▼関連補足