うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ここ数年の読書のきっかけと、小説を読むことについて


読書について、昨年こんな事を書きました。「長編小説を読めなかった頃のこと
わたしはずっとここで読んだ本のことを書いていますが、読書という行為そのものについて考えられるようになったのは、ここ数年のことです。そのきっかけと、先日ここで紹介した「逆境を乗り越える技術」がつながっていました。


わたしは20代後半〜30代の中盤くらいまで、ほとんど長編小説の読めない時期がありました。その頃はなにを選ぶにも、いまの自分にとって有益かそうでないかという基準で、新書や自己啓発書、ヨガの本ばかり読んでいました。
その後、インド思想の掘り下げとつながる形で、2013年から夏目漱石を読むようになりました。インド思想と夏目漱石のつながりは、2008年に読んだ中村元先生の「ヨーガとサーンキヤの思想―インド六派哲学」という本にあったのを記憶していたので、いつかわかりそうなときが来たら取り組もうと考えていました。インドにいた頃にサーンキヤ哲学の本を読みながら授業を受けていて、帰国してカンが鈍らないうちに…と思って取り組みました。そのしばらくあとに、「夏目漱石とパタンジャリ」というのを書いています。


夏目漱石を読み始めたら、思わぬところに夏目漱石が大好きだという人がいることがわかりました。その人とは、インドへ行く飛行機の中で知り合いました。
彼女は昔の小説から今どきの小説までたくさん読んでいて、当時小説の選びかたに迷っていたわたしが「今度この小説を読んでみようと思うのだけど…」とモニョモニョ話すと、「うちこさんには、ふわっとしすぎかも」とか「その本は読んだことがないけど、同じ作家の○○という本は○○でしたよ」と、あなたは人間ヤフー知恵袋か!というほどのレスポンスでいろいろな本を教えてくれました。
その後、彼女がわたしの考えていることの背中を押してくれたというか、読書会の会場を用意してくれました。場所はあるから、やりましょう! わたしが参加したいから。と。それがいまの読書会の土台になりました。


その後わたしも少しずつ小説を読む機会が増えて、2015年にブックフェアという商業展示のようなイベントで佐藤優さんが読書についてお話をされていたのをきっかけに、窪美澄さんの「さよならニルヴァーナ」を読みました。その講演があった頃はちょうど元少年Aの「絶歌」が話題になっていて、「絶歌」を読むなら「さよならニルヴァーナ」も読んでみて欲しい、というようなお話のされかただったと記憶しています。
「さよならニルヴァーナ」は、読んでみたら「こんな視点での切り取りかた、再構築のしかたがあるのか」という物語になっていて、登場人物ひとりひとりの考えかたが異なる状況、そうなる背景があって、単純に感想の書けないような物語でした。


このような、何年かの流れで読書について感じてきたことが、先日紹介した「逆境を乗り越える技術」のなかで語られていました。
第二部の「何を学んでおくか?」という章は読書についてのトピックが並んでいます。
そのなかで、佐藤優さんがこんなお話をされています。

その集団なり流れのなかで、いかに「この分野だったらこいつにしかできない」と思わせる物語をつくり上げるか。そうでないといつでもコマとして代えられてしまいます。だから小説を読むという行為は、生き残ることと深く関係してくるわけです。
(「生き残りのための読書」より)

この本はビジネスパーソン向けの本なので「生き残り」などのワードが出てくるのですが、ここへ至るまでの話のなかに、かつての新聞小説の存在について語られている箇所があって、「同時代性」という点について考えさせられる内容でした。
この本では夏目漱石の『それから』を例に説明されているのですが、この小説は連載開始から終了までがだいたい半年で、その間に多くの読者が物語を共有していたということ。そしてそれが共同体をつくることにつながっていたということが話されています。(このあたり、興味のある人はぜひ読んでほしいです)

そしてこの話の後に、現代についてこんなふうにお話をされています。

一人ひとりがバラバラにさえれた社会では「つながっている」という共同体意識など不要になりますから、小説の有効性がなくなってしまう。プロットを立てなくなって、"ポエム"の時代になるわけです。(中略)
こうして「プロットがある」という物語性がなくなっていきます。そうなるとすごく読解力や筋読みの力が弱くなります。
(「小説は学べる」より)

わたしが「さよならニルヴァーナ」を読んで複雑な思いを抱いたのは、この再構築という行為そのものに「なんかすごいな…」という思いがあったのと、「同じ事件をリアルタイムで知っていても、個人単位ですごく差がある」ということの実体験と重なったからでした。以前神戸で「須磨」という駅を通ったときに、一緒にいた兵庫の友人に「ここは、なんか名前を聞いたことがある」と言ったら「事件で、じゃないかな」とボソッと言われたときのことを思い出したのでした。


その時代を生きる別の人のフィルタを通した思考のバリエーションを見る。小説をそういうものとして読むようになったのは、最近のことです。
夢中になるだけではない読書が、いまはすごく楽しく感じます。