うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「自分の手でつかみたい」という気持ちを大切に


先日、3年ぶりの包括的哲学講座をやってきました。田舎でしっぽりやるつもりが、わりとワイワイしました。新潟までおいでいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
この日は冒頭で、かねてから思っていることを話しました。「あまり目立つお知らせをしない理由」とあわせて話したのですが、わたしは「自分の手でつかもうとする」という気持ちを大切に考えています。
「つかもうとする」と「はじっこをつまんで引っ張ろうとする」は似ているので、外から見ると見分けがつきにくいのですが、慣れると見分けがつくようになってきます。
これはわたしの側から見た景色ですが、「つかもうとする」目には「過去の失敗」が背景にあるので、力があります。「過去の失敗」をその都度認めて、これからの思考を自分のものにしていこうとする姿勢は、輝いて見えます。
一方、「過去の失敗のようなものをなかったことにできるような理論、ないかしら?」と、探してつまんで引き寄せようとする小手先の行動や「わたしはうまくいってなくないもん」という逃げ腰の目には、力がありません。



わたしは、なにごとも失敗なくやっていけるのって、たぶんわりとうまくいっても10歳くらいまでだと思っています。10歳くらいからはもう、「ああ、自分はこの失敗をごまかそうとしている」みたいな自覚がありました。それを、いいトシになるまで続けてきたなぁ、と思うんです。いまはそういう自覚があります。それを都度都度ごまかすということを「これからも続ける?」という気持ちをあいまいにしたくない。
わたしは聴く人を当然のように「おとな扱い」できる場だと、思いっきり話せます。わたしが大切に考えるのは、こういう設定です。



「失敗してきたから、わかる」という自覚はアドバンテージ。わたしはいまも、失敗だらけです。
認識違い、都合のよい理論の引き寄せ、主客の取違い、スケールの読み違い、etc…
勉強しても、たくさん本を読んでも、準備をしても、コンディションは刹那で変わる。なので、刷り込んでモミ込んでアウトプットしてみてそれを自分で食べてみて… を繰り返す。



そんなわたしなので、話を聴いてくれる人の目の奥に「あ。やっぱりそこ、あいまいにすると意識は雑なほうに引っ張られるんだ。気をつけなくちゃ」みたいな「キラリ☆」が見えると、「この微細なポイントを逃さず聴いてくれて、ありがとう!」という気持ちになります。
話を聴いてくれる人たちの5年後、10年後、そして「死の直前」のことを思って話す。もう一生会わない人ももちろんいるにしても、そういう気持ちで話す場と決めているときは、この目の輝きがうれしい。



 うまくいっていないことを見つめて、どんどん教材にしていこ!



また気が向いたら、唐突にこういうのをやろうと思います。