うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

夢に迷って、タクシーを呼んだ 燃え殻 著

芸能人ではない人が動画で発信をする時代になって、その振る舞いに戸惑うことがある。
このエッセイの中で「タウリン多め」と書かれていたのがそれで、普段は中二病的な無愛想を隠さず周りに気を使わせている人が「はい! どーもー」みたいな喋りかたで動画を発信していたら、わたしもきっと著者と同じ気持ちになる。

 


そして、何を隠そう、かつての自分がまさにそれ(タウリン多め)だった。わたしには、自分が他者にそう思わせていた過去がある。
このブログでも何度か書いてきたけれど、かつて自分が所属していたヨガ教室の人が、わたしが ”文章では饒舌” であることを気持ち悪がっていると言われたことがある。
眞鍋かをりさんが築いたブログの女王の座に若槻千夏さんが明るくやって来たあの頃、一般社会ではまだまだ、ネット上で日記の文章が饒舌な人はキモい存在だった。
そんなキモかったわたしが、いま、動画の中で饒舌な人をキモいとか言っちゃってるのだ。

 

 

タウリン多めな振る舞いについては、もうひとつ思い出すことがある。
その学校(←この時のは、インドではなく日本)のティーチャー・トレーニング(TT)で、わたしの喋りかたが妙に慣れているのが気に入らないという人がいた。あの人は他の場所でインストラクターをしているのにこの学校のTTに参加していると同期生のひとりが言いだし、友人が板挟みになってしまった。
わたしのスイッチの入れかたはウェブツールの操作指導をするときと同じもので、言うことを漏らさず盛り込んで時間通りに進めるテンポが、タウリン多めに見えてしまったようだった。
この他にもいくつか、似たような理由で目ざわりと言われたことがある。

 

 

こういうのは、ただのギャップというわけでもないし、誤解とも違う。
前提や土台の違いで、やっている側は “なんとかうまくやりたいだけ” だ。これが、相手にとっては軽薄に見えてしまう。

世渡りのうまい人は、こういう時にも程よくたどたどしくやる。だけどわたしはそれをする人を信用しない。子役のあざとさを素人のなかに見るときのほうが、わたしは不安になる。

このエッセイでは「タウリン多め」と「時代と寝るタイプ」が紐づく著者の思考がおもしろかった。僻みかたには個性が出る。この僻みかたは、とても正直だ。

 

 

このエッセイの連載は ”誤解に次ぐ誤解” がきっかけで終わることになったらしい。どんな誤解と、それに次ぐ誤解があったのだろう。
どんな読みかたをする人がいたのだろう。twitterで話題になった人が文筆家になっている状態を「時代と寝るタイプ」と見た人がいたのだろうか。別にいいじゃないか。どんどん寝たらいい。もう大人なんだから。

 

 

『普通に生きることはできないのか?』というエッセイにこんな言葉があった。

本当は良いも悪いもない、好きか嫌いしかないのだが、そこに目利きの評価が欲しくなる人たちがいる。

この一文を読んで、好き嫌いの理由を自分の言葉で言えることの大切さを思った。自身の残酷さから逃げないところも正直で好きだ。

 


この著者のエッセイを読んでいると、あの時なんで自分が他人に嫌がられ、気持ち悪がられたのかがわかる。嫌がられていることを自覚しながら、嫌がられているその一点を武器にせざるを得なかった、頑張っていた過去の自分が登場する。
同時に、そうやって自分なりの "快" (ときに "逃げ" でもある)を選び続けて今があることに気づく。もうあの不快には戻れない。だけど失敗を避け続けたら人生が萎んでいくこともわかっている。恥をかかなければ成長しない。

この作家の言葉は、恥をかく勇気をくれる。