うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

太もも、ふくらはぎ、足首、足の甲、足指の研究

脚と足のことを、セラピストの知人とともに研究しています。
彼女は日々の仕事で施術をしながら、わたしはヨガのアーサナのナビゲーションをしながら思うことを貯めて、持ち寄って「足りない力を人はどうやって補うか」などのことを参照しあっています。また、それをほぐしていくためのアプローチをさがすために、項目を決めて人の脚を見せてもらうこともしています。

もともとのきっかけは、彼女がわたしを施術したときに、普段接しているお客さんと違うところを聞いたから。わたしの脚は「反応も筋肉の位置もわかりやすい脚」で教科書どおりなのだそう。その理由がシンプルだったので、商品や部品の撮影をするときのタバコの箱みたいな役をやることにしました。



わたしが右に立って、施術前後のモノサシのような役割をします。
セラピストの女性のコメントを聞いていると興味深いこともあるけど、自分の思いたい仮説に引き寄せすぎではないかと思うところや、わたしの考えにあわせようとしていないかと思うこともあり、そこは質問します。
わたしは自分がマッサージを受けるとき、推論が粗雑なまま経験則を口にする人を、うさんくさいと感じます。なので研究的談義の時は「この視点で見ているときに、ドーシャを持ち出す根拠がわからない」などと訊ねます。
「触れる」人でないとわからない部分には、わたしはまったく言及できないのですが、感覚から得た情報からメンタルのことに言及する以上は、誤謬(ごびゅう)のない理論・説明を求めます。じゃないと、ただの人格批評と同じだから。


誤謬(ごびゅう)wikipediaの解説は読めば読むほど秀逸…】
普段は使わない言葉ですが、ヨーガ・スートラやサーンキヤ・カーリカーではよく目にする「pratyaya」です。


「バイアスをかけたり引き寄せた理論。主語を大きくしたり小さくすることで相手を思考停止させるような説明」は、とにかくうさんくさい。「○○だから○○だろう」というのは、かなり感度に信頼のおけない限り、聞きたくないものです。
先に「推論が粗雑なままの経験則」と書きましたが、
たとえばそれは


 煙が見える=そこに火がある


という推論。煙と火の、インドの教典で定番の喩えですが、上記のような推論の定番ストーリーがあったとしても、いまの時代なら


 煙が見える
⇒ 煙は白だ
⇒ あそこに、燃やしたら白い煙が出るもの、もしくはドライアイスがあるのかな
(あそこで発生したのかな? どこかから投げ込まれたのかな?)


というふうになるはず。
セオリーに寄りかかることなく、自分を疑う余地を持ちつつ見れば、言い切れることはほとんどなくなっていきます。いろいろな知識・免許を持っている人ほど持論に引き寄せる材料をみつけやすく、ノイズも増えます。排除の作業も増えていきます。
わたしは、セラピストと一緒に行う「排除の作業」がすごく勉強になっていると感じますが、これをほかの人と共有するのはすごくむずかしいです。


暗示にかかりたい人が年々増えているので、「診断のような形ではアウトプットしない」というのも、重要なこと。わたしはとくに具体的なアプローチをするわけではないので、マッサージなどのことはその施術によって「悪化を食い止め」たり「分散」させたり「適正化」ができればいいんじゃないのかな、くらいの気持ちで見ています。
自分のフィールド(ヨガ)へ持ち帰ったときには「もしこういう疲れ方を減らしていきたいなら、いまはこのアーサナはここに注力して練習したほうがいいかもね」とアドバイスする程度。



ちなみにわたしは、足の指の形や長さ、指の間のシャープネスをよく見ます。


「ヨガのアーサナの説明が聞けるようになってきたな」とか「耳に入った情報を隅々に伝える精度が上がってきたな」という視点で上達を見るとき、足の甲にシャープネスが出てきたと思うことが多いから。
身体全体にもっさりとある「むくみ」が取れてくる頃に、脳に送られる血液もシャープになってきているのかな、なんて思う。勝手に思うだけ。
でも、言うとうさんくさいんだコレが(笑・書いちゃったけど)。


関西で「ブログにある "脚と意識 " の話が聞きたい」とリクエストをいただいたのですが、経験則の伝え方は慎重であるべきと考えているので、今後もそういうワークショップはしないと思います。話せることはいくらでも何時間でもあるのだけど、結果的に誤謬の拡散になることのないようにと思うと、やはりすごく慎重になります。