うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「芸」と「畏れ」

今年のはじめに友人に連れて行ってもらったストリップ劇場や、ふらりと入ってからリピートしているお笑いシアターへ足を運ぶようになって、いままで頭の中でぼんやり思っていたことをたくさん言語化するようになりました。世の中には有名でなくても高い志で仕事をしている人がいて、そういう人の仕事ぶりを見ると励みになります。
「芸」というのは究極で、見る側が負担を感じた瞬間、心の底からは楽しめなくなる。そんなか、わたしがプロだと思う人には微妙な境界があると感じました。

  • 「笑わせること」が素晴らしいと思っている人と、「笑うという行為」そのものへの身体的興味で取り組んでいる人がいる

これはお笑いライブを見ていて感じる。前者の人が多い。後者の人は、「人はどういうときに "おかしい" "おもしろい" という意識を発動させるのか」ということを科学するように取り組んでいる。より深い後者の人にはぜひ成功して欲しいと思うし、そういう人の取り組みを見ていると励まされる。



ストリップの場合は若干状況が複雑なのだけど、でもこういうところがあると感じました。

  • 「見せること」のニーズを疑っていない人と、「見せること」そのものの必要性に疑問を持ちながら取り組んでいる人がいる

裸が見たいという非常に原始的な興味のうえに芸があるのだけど、前者の意識の人は「じらす」ことが中心になる。「見たいんでしょ」という前提がなくなったらどうするのだろうと思う。後者の人は「結局脱ぐ」という基本ルールはただのルールで、「裸だけを観にきているだけではないと思わせてくれる体裁」まで用意してくれる。どんだけ志が高いんだよと思う。後者のような人の取り組みを見ていると励まされる。若いストリッパーさんの中には、裸なんて画像や動画で簡単に見れるという時代でやることをすごく意識していて、プロ意識がハンパない人がいる。女性同士だと「生理のときとか、大変だろうなぁ」とまず思ったりするのだけど、別の何かに突き動かされていないとやれないだろう。
(ルールというと「これ以上はやらない」という側面もある)




 ルールの上に乗せるものが「芸」なのだけど、
 「ルールにのっとっている」というだけで「芸」とみなす人もいる。
 後者は、 掃いて捨てるほどいる。



これがストリップとお笑いの世界から得たヒント。
あと、お笑いの人たちを見ていてこれは踏み絵だなと思ったのは

  • 「売れる」「売れたい」ということばを「誰に」という対象なしに使うこと

ルールにのっとっているだけで芸がなくても売れている人なんていないと思うので、「売れる」という言葉はそんなに使う機会がないのでは、と思う。が、若いお笑い芸人さんたちはよく使う。師と仰ぐ人や有名な芸人さんのエピソードを話題にする人がいるけれど、そういう話を聞くと、その人は「売れるという行為」に興味があるのであって、「笑う」という身体行為にはさほど興味がないように見えてしまう。
わたしのように、リラックスしたくて行く人間は、ここで妙に現実に引き戻されてしまう。



「目的」と「手段」と「手段の目的」がごちゃまぜになることはよくある。でも、ごちゃまぜになるものが分解できればよいのだろうな。それができなくなることへの「畏れ」があるかないかが、どんな仕事でも大切なことのように感じます。
いいわけせずに、ていねいに。ウケなくても重ねていくこと。
わたしは芸人ではないのですが、最近そんなことが本当に大切であるなぁと感じます。