さまざまな著作からの抜き出しなのですが、ここで読んだ内容をきっかけに「善悪の彼岸」「曙光」「漂泊者とその影」を読んでみたいと思いました。
ニーチェは哲学家と言われますが、どちらかというとコピーライターに近い気がします。男の清少納言という感じがしました。視聴率のいい番組が作れるプロデューサーのよう。特に「人間的な、あまりに人間的な」からの訳はコピーワークとして突き抜けています。
「善悪の彼岸」「曙光」「漂泊者とその影」からの訳を見ると、サーンキヤでもヴェーダーンタでもないところで悶々としているうちにナイスコピーが出てきちゃったような、そういう感じがします。輪廻思想に振り切るでもなく、超現実に振り切るでもない。
清少納言に対して「この人がモテる女性だったらどんなことを書いただろう」と思うのと似た思いが浮かぶ。
うまく言えないのだが
男を魅了するのを忘れるような女は、その度合いの分だけ、人を憎む女になる。
『善悪の彼岸』
だ、だれかニーチェさんのお相手して差し上げて! グラスがもうすぐ空きそうだから……
というような。
ちょっと放置されたからってそんな呪いかけなくても……、とツッコむ自分もおり、手離しで「ニーチェすごい」とならないところが、ニーチェさんの「あまりに人間的な」魅力でありましょう。
そんなところが、インド哲学のオッサンらに比べると、とにかくかわゆい☆
いつも機嫌よく生きていくコツは、人の助けになるか、誰かの役に立つことだ。そのことで自分という存在の意味が実感され、これが純粋な喜びになる。
『人間的な、あまりに人間的な』
インドだとグランドもう一周! とばかりに「そこに喜びを感じるエゴに向き合え」となる。ニーチェさんは、やさしい。
「平等の欲望」ほか、二元論形式で語るものは、どれもおもしろかった。
平等という概念語を好んで使う人は、二つの欲望のどちらかを隠し持っている。
一つは、他の人々を自分のレベルまで引き下げようという欲望だ。もう一つは、自分と他の人々を高いレベルまで引き上げようという欲望だ。
だから、叫ばれている平等がどちらなのか、見極めるのが肝心だ。
『人間的な、あまりに人間的な』
それがわかってるからカースト制度でその議論のエネルギーを発生させないインドでは出てこない発想。
「二種類の支配」「二種類の冷静さ」というのもあり、これもまたおもしろかった。
いっぽうで、思いっきりブッダなこともおっしゃる。
自分には選択の自由があったというその考えさえなければ、こうなったという現状に対して、快感も不快感も生まれる隙はないのではないだろうか。
『漂泊者とその影』
悪人の不幸を自業自得だと傍観しているだけではよくない。彼が自分自身を憎むのではなく、なんとかして愛することができるようわたしたちは努めようではないか。
『曙光』
絵画的な分解表現も出てくる。わたしはなによりこのふたつに共感しました。
「対比によって輝かせる」「知的で美しい人を探すなら」(←いずれも名言!)
ニーチェは「言葉」をイーシュワラ(神)としていたのだろう。
たくさんの言葉を知ることは、実は、たくさんの考えを持つことになる。たくさんの考えを持てば、より広く考えられることになるし、ずっと広い可能性を手にすることになる。これは生きるうえで利用できる武器の最大のものだ。
言葉を多く知ることは、この人生の道をとても歩きやすくする手立てになるのだ。
『曙光』
この信念は一貫性がある。
ニーチェと言う人は、とにかく反省文をいっぱい書いた人なんだな。たまにボヤきながら。
壁にぶちあたって考えて、残した言葉を磨け上げたとんがりにキューンとなって励まされる。松浦弥太郎さんの本の読後感と似た感じで励まされる。
現世利益的な処世術と東洋的に徳を積もうとする輪廻思想がごちゃ混ぜなんだけど、このドンキホーテっぽい言葉の品揃えがまた魅力。
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