ユダヤ人の不屈の明るさをとことん攻めのスタンスで伝授しまっせ! という本。
著者のラビ・マーヴィン・トケイヤーさんは滞日生活が長く(Wikipedia参照)、日本人マインドへのつっこみがド直球。
ユダヤ教の勉強のつもりで買ったのに、この本を読むことで「自分がどういうことに疲れていたのか」に気がついた。漠然と感じる「閉塞感」の種明かしがどんどん投球される。
自分を縛っているのは社会のなかの自分なのだということを、仏陀とは別の角度から教えられます。チョギャム・トゥルンパ調というかマツコ・デラックス調というか、そっち方向の鋭さ。
この本は1994年の本なのだけど
<初刊翻訳者あとがき より>
本書は、日本人が新しい時代の生き方を模索するのにあたって、貴重な手がかりを与えてくれる。自分の生き方に役立つばかりでなく、ユダヤ人という偉大な民について知るにも絶好の本である。
いま読むとドンピシャな気がします。
<24ページ 英知の源泉『タルムード』より>
『タルムード』の大きな特徴の一つとしては、終わりのない本だということがあげられる。すなわち、『タルムード』の最後のページは、常に白く残されているのである。
これは、紀元前五世紀に "バビロニアの『タルムード』" がつくられてから今日まで、一貫してユダヤ人の新しい知恵が、そこに書き継がれてきたことを意味している。普通の本はクローズド・エンドの本といえるが、『タルムード』はオープン・エンドの本である。
『タルムード』は、アラム語で、「深く学ぶ」という意味である。このことからもわかるように、本を読むときには、読者は、常に最後の白く残されたページに必ず何か自分の考えをつけ加える義務があることを、頭に置いておくべきだと思う。
閉じた読了感よりも、読んだ後すぐに考えをまとめたくなる「オープン・エンド」というのは素敵な発想だ。
<32ページ 屈辱に耐えた「空気男」たち より>
イーディッシュ語で、「ルフトメンシュ」という言葉がある。「空気男」とでも訳せようか。要するに、空気のように軽快な男という意味であるが、ここにはユダヤ人の歴史的なペーソスがこめられている。(中略)
彼らは、どのような仕事でも受け入れた。仕事の体裁とかで、いちいち自分の誇りを傷つけられているひまはなかったのである。外で自分があやかれる仕事によって自分を測ることをせず、それだけに、強い自尊心を持っていたのである。
(中略)
「ルフト」は、ドイツ語で航空便のことを「ルフトポスト」というように、「空」あるいは「空気」のことである。「メンシュ」は、ドイツ語でも人間のことだ。しかし、ドイツ語でいう「空気のような男」と、イーディッシュ語になった「ルフトメンシュ」とでは、まったく意味が異なる。
苦難は人間を空気化したのであった。これからは価値観の拡散時代がやってくる。それに備えるためには、「ルフトメンシュ」として生きることが大切になるだろう。
「価値観の拡散時代」というのは面白いなと思った。いまの時代を見ていると、拡散されたもののなかでも、輝くものをキャッチする網目のような感度がものをいう時代なのかなと思う。
<56ページ 「笑の民族」とジョーク より>
ジョークは、他人に向って話すだけのことではない。自分の知性の柔軟性を富ませるためにも役立つのだ。ジョークは、知性という機械にさす油のようなものである。生真面目さという鎧で、自分の知性の柔軟さを縛ってはならない。笑いは自由を与えてくれる。
何度も繰り返すが、ユダヤ人ほど歴史を通じて迫害された民族はない。それでもユダヤ人は生き残った。このためには、しぶとく逞しい精神が必要だった。笑がユダヤ人を守ってきたのである。ユダヤ人がけっして絶望することがなかったのは、『聖書』が教える正義の世界を頑なに信じてきたからだけではない。笑という柔軟性を持っていたからこそである。
この本にはたくさんのジョークが紹介されていて、かなりレベルが高い。その流れでここを読むとシビれます。
<91ページ 進歩を確信するユダヤ的世界観 より>
ユダヤ教には、仏教の「悟り」といったような概念はない。ここからも、ユダヤ人が学ぶときには、習うことではなく、自らきわめ、そして新しいものを得るという考え方が出てくるのである。ただ習っているのでは、停滞しているのに等しい。したがって、学ぶといってもただ勤勉に習うことではない。自分が何か新しいものを得なければならない。
そんな真面目修行バカばっかりみたいな言い方、ヤメテー!(←日本人ぽく被害妄想)
<98ページ 権威から自由であれ より>
キリスト教は権威主義的な宗教である。語源から見ても、英語の「宗教」religion のもとは、ラテン語で religare ──「縛る」という言葉である。協会へ行くと、キリストの像やマリヤの像がある。そして人々はその前で跪いて祈るのだ。これは偶像崇拝である。(中略)
しかしユダヤ教には神の偶像はない。ユダヤ教では、神の姿が絵に描かれることもない。キリスト教では、神は慈悲深い老人のイメージに描かれている。だがユダヤ教では偶像を嫌ったので、神の像をつくったり、あるいは神のイメージを絵に描くことはなかった。
「religionのもとはrelogo=結びつける(yoga的)」とする「ひろさちやさんの本」の内容と比べると、この解釈の違いが少し面白い。縛るってことは、ヨーガよりもバンダか! ヨギ的にはどっちでもいい気がする。
「あいつらは偶像崇拝どもだ」という勢いは、イスラームと似ている。ユダヤ人にはイスラームがどん臭く見えたのかなぁ。なんてことを想像した。
<108ページ 連想力を発揮するコツ より>
知識をできるだけ貪欲に多く吸収するということは、詰め込み教育とはまったくちがう。知識を求めることは、あくまでも旺盛な好奇心によって支えられていなければならない。「不遜な好奇心は、神が人間に送った素晴らしいガイドである」と、『タルムード』は説いている。
好奇心をガイドだと思ったことは、なかったなぁ。これはかわいらしい考え方。
<111ページ 人間はひとしなみ人間である より>
「平等」というと、今日の日本人の大多数は自分の権利を主張する格好な手がかりぐらいにしか考えない。
しかしはっきりいって、これは卑しいことだ。下の者が上の者からもっと多くのものを貰いたいというときの根拠として使われるだけでは、本当に平等という概念がわかったことにならない。「平等」というのは、もっと素晴らしいことなのだ。胸が湧き立つようなことである。
平等であることを信じることが、自己確立の第一歩である。独立個を持つためには、まず自信をいだかねばならない。自分を大切にするためには、自分に価値があることを信じなければならない。広い空の下では、だれでも平等なのである。裸になれば、だれでも同じではないか。
自分をディスカウントしてはならない。過剰な自己卑下や、自己嫌悪は一種の慢心である。自分だけが特別な存在だと思うことから慢心が始まるのである。だれだって同じように悩み、喜び、笑い、泣くのだ。自分だけが偉かったり、自分だけがくだらないということはない。
心のセコさの斬りかたは、まるでチョギャム・トゥルンパ。
<115ページ 人間はひとしなみ人間である より>
ユダヤ人は、人間が人間であることを恥じない。これは人間の獣的なところを認めているからだ。たとえば、ユダヤ人はどのような重要な客と一緒にいても、尿意を催したときに便所に立つことを少しも恥だと思わない。ところが西洋人(というときはキリスト教徒のことを指しているのだが)は、あるいは日本人もそうだろうが、重要な客の前で尿意を催したときに席を立つことについて羞恥心を持っている。
理趣経に似たところがある。あるんだよなぁ、と何度か思った。
<116ページ 人間はひとしなみ人間である より>
『タルムード』では、人を殺すことを戒めるために、「一人ひとりの人間はアダムである」と教えている。この話は、いかに一人の人間が重大であるかということを示している。
もし、エデンの園にいたたった一人のアダムが殺されてしまったら、今日の人類はなかっただろう。すなわち、今日世界に住む五二億人の人間の一人ひとりがアダムと同じような尊厳を持っているのである。
これは、今後の学びで何か思うところがあるかもしれないので、メモ。
<184ページ 知恵ある者の責任 の章より>
知恵ある者の責任に関する箴言は、『タルムード』をひもとけば随所にちりばめられている。そのいくつかを抜粋してみよう。
(そのなかからさらに抜粋します)
- ブタは食べすぎる。苦しんでいる人間は話しすぎる
- 賢い者は自分が何を話しているか知っており、愚か者は自分の知っていることを話す
- 人から秘密を聞き出すことはやさしいが、その秘密を守ることはむずかしい
- 侮辱からは逃げろ。しかし名誉を追うな
たくさんなかの一部。
『タルムード』を読んでみたくなりました。ヨーガの修行にこのマインドが加わったらすごいだろうな……と思った瞬間、マドンナ師匠を思い出しました。同時代に活躍したかつてのアーティストによるこき下ろしコメント、ほか数々のバッシングを横目に粛々と表現を追及する強さ。
マドンナの「お金持ちになればなるほど、もっと人助けができるわ」(参照)という言葉を思い出した。
マドンナに興味がない人も、けっこう励まされることが多い本だと思います。リスクばかりが目についてしまうようなときに読むと、きっといい方向転換ができますよ。