うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン 著


ユダヤ人」という設定を使って書かれた日本人論。序章で認識することになる「わたしは、日本教徒なんだ」という現実からいきなりデス・スターに乗って信仰の宇宙に連れて行かれます。
ここ数年、外国人に日本のことを聞かれるたびに都度あらためて見直すことになっていた「日本人的な空気読み」。この背景が、どんどんつまびらかにされていく。シビれながら、夢中になって読みました。


裏表紙の解説を紹介します。

評論家・山本七平が、ユダヤイザヤ・ベンダサンとして1970年に発表し、300万部を超えるベストセラーとなった記念碑的名著。砂漠対モンスーン、遊牧対農耕、放浪対定住、一神教多神教など、独自の視点から展開される卓抜な日本人論。豊かな学識と深い洞察、新鮮で鋭い問題の提示は、「山本学」の原点となった。

40年位前にこんな本がベストセラーになっても、人の心って、なかなか変わらないのなぁ。「日本教」って、やっぱり根強い信仰なんだ。


巻末に、こんな断り書きがありました。

本書には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる表現がありますが、本書の性質や作品発表時の時代背景を鑑み一部を改めるにとどめました。(編集部)

ひとの心の歴史が「人権擁護」のもとに変えられてしまうことが多いなか、貴重な一冊として残してくれている。ありがたや。



この本は設定からしてちょっと複雑なのですが、イザヤ・ベンダサンさんのとらえにくさ(中の人は3人いるみたい)も含めて楽しめます。
著者名のイザヤ・ベンダサンユダヤ人設定で、イザヤ・ベンダサン山本七平ということになっているのですが、山本七平さん自体はクリスチャンの両親の家に生まれたとwikipediaにありました。どうやら、ベンダサンさんソースとなるユダヤ人が2人いらっしゃるようなのです。この設定もあって、聖書の解釈が両面踏まえて展開されています。(ここがすばらしい)
さらに、この本の中で「山本書店店主」とイザヤ・ベンダサンがタクシーの中で会話をする内容が出てくるのですが、ここはひとり二役ということではなく、日本人としての山本七平さんとユダヤ人思想の人の会話という世界観。この設定だから書ける題材がある。「そういうお前は○○人じゃないか」という感情を排除して読ませる流れになっています。
「いまの社会は表現の自由や発言の自由なんて、事実上ないじゃないか。あるのは決して表に出さない思考や思想だけ」。いまの世の中をこんなふうに感じている人には、よい刺激を受ける一冊になるでしょう。



この本にたどり着くきっかけは、こんなことでした。
わたしはいまの日本社会を「感情的法治国家」と思っているのですが、「法治国家」のWikipediaで以下の記述を見つけたのです。

山本七平は「『派閥』の研究」(文藝春秋)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、罰しなければ国民が納得しないほど目に余るものは罰する法律を探してでも(別件逮捕同然のことをしてでも)罰するが、罰しなくとも国民が納得するものは違法であっても大目に見て何もしない」と述べている。

国民感情の攻撃的な側面がインターネットの普及によって可視化されるようになって、いろいろ思うことが増えてきたときにこの記述を目にして、いつか山本七平さんの本を読んでみようと思っていたのでした。
それ以前にユダヤ的な考え方について、準備運動のような感じで何冊か読んでみてからこの本の読書に取り掛かったのですが、んまーこの内容のすごいこと。久しぶりに線をたくさん引いて読みました。紹介はものすごく長くなりそうですが、ここは誰にでも分かりやすくておもしろいと思った箇所をまず紹介します。

(以下はあとがきに登場する内容から整理・編集しています)


人間社会文明が進歩して、スーパーに「レジ」という機会を設置することになったときに、店員を務める人たちに「これは一体どういう機械か、ひと言で説明せよ」といわれたら、どうするのがよいか。「キリスト教」「日本教徒」それぞれもっとも共感をよびやすい考え方は、どういう流れか。

  • キリスト教徒は、人は罪深いものであり、誘惑に陥りやすいというものであるという前提のもとに「われらを誘惑に会わせないように、悪から救ってくれるモノ」という説明になる。
  • 日本教徒は、相手が正直で誠実そうだったら、信用するもんだという前提のもとに「手作業には人間だから間違いがあります。そのたびに人にあらぬ嫌疑をかけ、相手を傷つけ、人間としていやな状態にならぬようにしてくれるモノ」という説明になる。

「啓示宗教」と「解脱宗教」の違いともいえそう。実生活上でも思い当たることがたくさんある。「業務効率化」という名目で業務システムを開発したり利用する背景は「言った言わないのあれこれを避けたい。"誠実そう"などの感情論を持ち込まなくてよいように、ログが残るようにしたい」ということだったりする。
こういうことを考えさせられる問いが、ズバズバ登場します。



この本は1970年の本なのですが、もう現在の日本の状況まで読めている。

今世界を支配しているのは、まだ、キリスト教徒白人と共産主義者白人である。日本人は、かつてのアレクサンドリアユダヤ人のように、名目的には同じ地位にある「名誉白人」だが、実質的には握っているのは経済力であって(これがなくなれば、だれも日本に見向きもしない)、世界を動かす政治力でも軍事力でもない。(P198)

ホント、そうだったんだなぁ。と思うんです。
去年インドでヨガの指導をしていたとき、英語で国籍ごちゃまぜの状況だったのですが、日本人よりも中国人の生徒さんのほうが正直ウェルカムでした。ドネーションクラスであっても、とにかく金払いがいい。「無料じゃないら、よそへ行きます」と言ってしまう日本人に会ったこともあって、そのときにいろいろ思うことがありました。(参考過去ログ



日本では「グローバル人材育成」の必要性が話題になるけど、よくわからないイメージ表現だ。海外で生活した経験がなくても、外国語が離せなくても、グローバルな人はいる。それよりもやっかいなのは「行為としての経験」に勝手な装飾をしてしまうこと。

たてまえと現実との相関関係を勝手に想定して、対象を理解しえたと思ってはならない。「インド人は徳川時代の日本同様に牛肉を食べない」といえば誤りであることは、本書を読まれた方はすぐ理解してくれるであろう。(一方は神聖なるが故、一方は、けがれているが故)。従って「いや確かに食べない。私はその事実をこの目で見た」といっても、その主張は無意味である。(P261)

自分で考えているか? と鋭く指摘する題材として、これはとくにヨギ向きと思ったので引用してみました。



教育への指摘も鋭い。ソロバンの教育と「ソロバン的思考」について語られている箇所があるのですが

  • ソロバンには検算が必要だが、これも、数式の一つ一つを念入りに検査するわけではない、第一、そんなことは出来ない。自分でもう一度やるか、他人にやってもらうかで、この二つの答えが合えばそれで良いのであって、その過程は問題にしたくてもできない。これが日本人なのだ、そしてこれが、他の国民には理解できない日本人の秘密なのだ。(P236)
  • ソロバンは単にユビのわざではなく、意識的思考を排除して数字に乗って舞う、ということへの基本的態度が、無意識的教育のうちに教えられていなければ、すぐに意識が戻って指がとまってしまい、何としてもうまくいかない。(P237)

つべこべ言わずに習得する「プラクティカルなこと」の題材としてソロバンが登場しています。いまはこれが、ゲームに変わっている。



この後に続く指摘は、いま中学で武道を必修にしてみたり、あれこれテコ入れをしようとして正そうとしているなにかとつながっているでしょう。

 戦後日本では「意識的思考を排除する」教育がすたれ、「考える教育」が行われている。この結果、二種類の日本人が出来てきた。(中略)成功例は、従来のソロバン的思考が完璧にできて、しかもその思考過程を数式的思考で検証しうる人間である。

このあと成功例と失敗例の実名が出てきているのだけど、わたしの知らない人でした。これが書かれたのは1970年で、いまは「考える教育」というよりも「攻略する教育」のような気がします。どこにひっぱられているのかわからないけど、ゲームの普及によって、毒も増えてはいるのだろうけどプラクティカルな状況は減っていないように思う。



この本には一貫した主張の軸になる言葉として「日本教」という言葉が登場するのですが、ここはお子様のいる人には、ちょっと難しくても理解したほうがよいと思う内容でした。関連する3箇所をピックアップします。

  • ちょうどユダヤ人が、無意識のうちにミカの弁証法(この流れの前に「ミカ書」の説明がある)を使ってるのと同じであって、日本人は「人間的弁証法」とでも言うべきものを使っている。(P106)
  • ここで問題になるのは日本人のいう「人間」「人間性」「人間味」「人間的」とは、いったいどういう内容で、それを基とする「法外の法」とはどんなものか、ということであろう。(P110)
  • それは会話における言葉の問題ではなく、むしろ態度、語調、礼儀の問題であることがわかる。母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ聡明(英語ならクリヤー)に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範どおりであれ、ということである。だが、クリヤーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中で組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。(P230)

先日、中学生のお子さんをもつ母ヨギさんと話をしたときに、「スマートフォンの利用範囲を縛る理由について、子どもにどう伝えたらよかったのか」という相談になって、こりゃ複雑な悩みになったもんだと思いました。そのとき、彼女の子どもお叱りフレーズに「(いろいろな人災パターンを列挙し)もしそんなことになったら、お母さんイヤだからね!」というのがあって、それは「お母さんであるわたしが世間の規範から外れたくないのよ!」ということになるので、NGじゃないかという話をしました。たぶん、親子で「規範の範囲を、あなたならどう考える? 世間からどういう人と思われてしまった時点でドボンだと思う?」ということ話をしたほうがいいんだろうな。



このほかにも、こんな箇所に線を引きました。

  • イエス・キリストが馬小屋で生まれたということに、特別な(感情的な)意味づけをする日本人キリスト教徒(P38)
  • 「食器がけがれるから」と鋤で焼いたという、スキヤキの由来(P40)
  • 日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。これを著者は「キャンペーン型稲作」という名前をつけて語っている(P55)
  • キャンペーン型稲作の生んだ "なせばなる" の哲学(P50)
  • 草枕』を読まずに日本を語ってはならぬ。夏目漱石の「草枕」が日本教の「創世記」にあたるという解説(P120)
  • 日本人が何としても理解できないのが終末的世界観。日本教徒キリスト派は、イエスパウロの言葉を受け取る際の前提が違う(P140)
  • 神と人間の関係が、日本教では肉親的であり、ユダヤ教では血縁なき養子縁組であるという解説(P149)
  • 性行為を利潤と関連づける牧畜民は、日本人のような「浄不浄」の観点で見る感覚とは違う意識を持っている(P183)
  • 日本には「評論家」がすごく多いことと、刺身のツマの話(P226)

うなりながら読みました。



序章から語られていることの骨子は一貫していて、第一章に、こんなくだりがあります。

「腹をわって話す」「口でポンポン言う」「腹はいい」「竹を割ったような性格」こう言った一面がない日本人は、ほとんどいないと言ってよい。従って、相手に気をゆるしさえすれば、何もかも話してしまう。しかし、相手を信用し切ることと、何もかも話すこととは別なのである。話したため相手に非常な迷惑をかけることはもちろんある。従って、相手を信用しきっているが故に秘密にしておくことがあっても少しも不思議でないのだが、この論理は日本人には通用しない。(P30)

あとがきに「互いに交われば相互に理解できると単純に考えている日本人が余りに多い」とあり、「話せばわかるという美学が通じるのは、日本人だけの範囲じゃないかな」ということを本の中の随所で指摘しています。



「多様性を認める」というのは、自分には想像が追いつかないことであっても、その背景の理解をできるだけあいまいにせず、学ぼうとする姿勢なんだな。
この本の中では、日本人キリスト教徒は聖書の内容も情緒的な風合いで意味づけしようとする、ということが書かれていたけど、いっぽうで梵我一如の感覚をもって聖書に向き合っているという側面も語られていて、いずれもそうであるなぁと感じた。
今回の読書では「グローバル人材になるって、そんなに簡単な話じゃない」という部分に目がいったけど、この先さまざまな困難に出会ったときに読み返して、他の箇所が沁みてくることもありそう。ずっと手元に置いておきたい、日本人の潜在意識を知る参考書のような一冊でした。