うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「師」の権威と概念(「日本人の思惟方法」中村元選集より)


たまに「○○氏に師事」とか記載されていても実態はカジュアルな昨今、とはいえ「師事」のニュアンスには古来から日本独特のものがあります。親鸞みたいに「師の法然さまとならばたとえそれが地獄行きでもご一緒したい」とまで言い、弟子に対しても「おまえ俺が人を殺せといったらどうするよ?」と尋ねるレベルまでいっちゃうのもある。今日はその歴史に潜んでいたハードなトラップが「日本人の思惟方法」という本の中でつまびらかにされていたので紹介します。まえに書いた「ヨガの封建制度」の日本仏教版みたいな話です。



インドの聖人たちの話でも、ババジ〜ヨガナンダさん系列のラインとか、ラマクリ師匠&びべたんのラインなどありますが、日本で有名なのはやはり法然親鸞の関係です。この関係について、親鸞歎異抄の第二条で行なっている「釈尊のいうことはまこと→善導のいうことはまこと→法然のいうことはまこと→それを弟子のわたくし親鸞が話しています」という論法について、中村先生が鋭い指摘をされています。

これは明らかに複合三段論法としての特徴をよく示しているが、それの構成単位である個々の三段論法においては、つねに大前提がかくされている。かくされているその大前提は、「師匠に対して忠実であった弟子の言は、師匠の言と同様に真実である」ということである。これは内容的にはおおいに問題とする要のある命題である。それにもかかわらず、親鸞を中心とする日本人たちは、これを当然の道理としてとらえ、あえてあらわに表明する必要もないこととして伏せてしまっている。(P221)

ここは気づかなかった! たしかにこの論法をウパニシャッドの世界へ置き換えたら、ここへのツッコミをきっかけに2、3節生まれそうな勢い。こういう読み方をすると、その次の第三条(悪人正機説が出る)へ至る前の「まあ信じるか信じないかは教えを受ける人の自由ですが」というクッションがすごく巧妙に見えてくるなぁ。




この話は続きます(以下P221)

インドやシナの封建社会における諸々の宗教家は、親鸞道元のように特定の人格に対する絶対的帰依を強調しなかった。インドでできた仏典においては「善知識に近づけ」ということが、じつにしばしば説かれているが、「善知識」とはサンスクリットの kalyanamitra の訳であって、「よき友」あるいは「親友」という意味である。しかるに日本において「善知識」という語が「宗教上の師」という意味に解されたのは、日本的思惟方法がそのように解釈の変更をさせたのである。インド人、ならびに多くのシナの仏教徒にとっては、宗教的意味における「法」は、特定人としての師から弟子に伝わるものではなくて、修行者みずから体得するものなのであった。

弟子が教えをいただくまえに、師を食いに行っちゃう。そして師が社長っぽくなっちゃうこの感じは、とても日本ぽい。そこに「おっと師がこんなところにいた!」というカラテ・キッドな雰囲気はない。また、師のほうが弟子を見つけてキャッキャする感じもありません。師側がキャッキャするパターンではラマクリ師&びべたんがまさにそうですが、わたしは恵果師&空海たんにもおなじ流れを感じます。





この本の中村先生はかなりの切れ味で容赦ない。以下は師弟関係の話ではなく「教義の伝達」についての話なのですが、かなり興味深い考察です。

シナ禅本来の見解によると、「教外別伝」とは、絶対の宗教的真理は文字言説によってはいい表わすことが不可能であるということをいうのに対して、道元によるとそれは、正しい伝統にしたがっている文字言説によってのみ人々に伝えることが可能であるという意味に変ぜられている。シナにおいては特定の教説の権威の否定としてたてられたこの標語が、日本の道元によっては特定の教説の権威への絶対随順の意に転化されてしまった。(P241)

もし空海さんの性格が道元さんだったら、最澄さんに「箔をつけた理趣経」を貸し出したんじゃないかと思う。あんまりここは踏み込まないようにしているのだけど、ぶっちゃけそう思うわー(笑)。わたしが空海さんに萌えつづける理由は、まさにここ(そういうことをしなかったところ)にある。




そして中村先生は聖徳太子にまで切り込む!

 大乗仏教においては利他行を強調するが、聖徳太子はとくにこの点を強調し、仏や菩薩たるものは、一切衆生を供養すべきであると考えた。そのために、ときには経典の文句に対して無理な解釈を施している。また『法華経』では「つねに坐禅を行なえ」と勧めているのに、聖徳太子はその文章を「つねに坐禅を行なうような人に近づいてはならぬ」という意味に改めている。その趣意は、つねに坐禅ばかり行なっていたのでは利他行が実践できないからであるというのである。(P303)

教義を曲げたという突っ込みなのですが、これちょっとおもしろいですよね。聖徳太子って、十七条憲法でもカルマ・ヨーガの真理をついていて、この時代にこんなに啓けた人がいたのかと驚く思考をしている。




好みの問題なのか、わたしの理解がまだ浅いのかはわかりませんが、教義のなかに透けて見える「未来の俺様の権威を高める設計」にひっかかりを感じたら、そのまま関わらずにおくのがよいと思います。つっこまずに、そうしておく。つっこんだ瞬間から「食いに行く立場」になってしまって、「教え」や「法(ダルマ)」そのものからは遠のいてしまうから。そして、新たな師を求めるのではなく、あらわれるのを待てばいい。
現代の学びのスタンスは、いつも意識しておきたい。その再認識のきっかけとして、修練することへの主体性のありかたを中村先生がズバズバ☆ザクザク★やってくれたわ〜。なんかステージでギター壊しているロックの人みたいですが、ギターを壊すのよりかっこいいですねぇ。




そして思うのですが、最後にやっぱり気になった親鸞の思い。
親鸞はこのプロセスを踏んだことで、唯円に「おまえ俺が人を殺せって言ったら殺す?」という問いができたのではないかな。
美化しすぎですかね。




なんで空海空海たんで、親鸞が敬称略なのかとか、これはラブや親近感の微妙な種類の違いなので、つっこまないでくださいませね。おら越後出身なのだ。
冒頭写真は梅原猛版「歎異抄」第二条の該当部分にラインを引きました。
このトピック自体は「日本人の思惟方法中村元選集から成り立っています。

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