漱石グルジの小説を読んでいると、聖書の教えが知りたくなる。この本は友情論についてなので、なおのこと気になり読んでみました。1994年の本です。
エッセイのような感じで、読みながら「ああ、著者さんは具体的に誰かの顔を浮かべて書いているんだろうな」という感じがする。普段の思いが乗りやすいのだろう。と思っていたら、中盤で以下の自己開示があり、妙に納得した。
<183ページ 第30章「肉の人・霊の人」より>
私はいつも親切な人になりたいと思っていました。しかし、時に、親切は人を煩わしい思いにさせる、というような自覚もあって、私はいつも中途半端な表現を取ってきました。それを恥ずかしいと思っています。
私は善意を意識的に遠ざけるような生活もしました。生まれつき根性が悪い上、人を見抜くには、悪意も役に立つように思ったからです。作家になったということは、私が善意をもって人を見ることがしばしばできなかったということに対する、告白のようなものです。
「善意をもって人を見ることができない」ということが書くことにつながる、というのは、わたしはすごくよくわかります。むしろこういう気持ちがないと、文章って書けないものかも。とも思いました。書かない人が善意の人だとも思っていません。なにか、行動で解消できることがあればよいのだと思います。
<28ページ 第4章「いちじくの木の下の邂逅」より>
今でも中近東の人はほんとうによく瞑想します。それも、お坊さんとか、学者とか、偉い人だけがするのではないのです。普通の人がいつでもよく瞑想する。それだけ生活が厳しいのでしょう。
ここは、そうなのかぁ。というメモ。
<34ページ 第5章「勇気あるフェミニスト」より>
私たちはサマリアという地方の特殊性について少し知るべきでしょう。サマリア人というのは、北王国イスラエルのユダヤ人が、紀元前八世紀にアッシリアに強制的に移住させられた後、残った人々と、異民族との間に生まれた混血児で、ユダヤ人たちは彼らを嫌って差別していましたし、彼ら自身もエルサレムの神殿ではなく、ゲリジム山頂に彼ら独自の神殿を建てて拝んでいました。つまり正統ユダヤ人からは差別されていたサマリア人の、しかも当時親しく口をきくことなど社会的習慣として許されてもいない婦人に対して、イエズスは全くこだわりなく、話をされたのです。
わたしは宗教の物語の中で語られる「こんなに偉い人なのに下々の身分の者にわけ隔てなく接し」みたいな表現がそもそもキモチワルイと感じる性分なので、コーランを読んだときはこのスタンスをとりようがない設定であることに感動しました。キリスト教も日本の封建的な仏教も、この素地の上にある大乗という感じがこわい。
<52ページ 第8章「しつこさの報酬」より>
「しかし、あなたたちに言っておく。友人だからということで、起きて、何も与えることはしなくても、そのしつこさのゆえに起きて、彼が求めるものをすべて貸すに違いない」(「ルカによる福音書」11・8)
多くの人が、自分は友人に親切だと思っています。しかし彼らも、親切を尽くすことで、ほとんど自分は何も傷ついていない。ほんとうの友情は、自分がそのためにいやな目に遭うことも含まれているのだと聖書は言うのです。何の犠牲も払わずに、ただ楽しいだけで、友情がなり立つと思ったら、それは甘い考えなのでしょう。
このくだりを読んだ後に「親しき仲にも礼儀あり」というフレーズが浮かんだ。「礼儀あっての友人ですよ」というのもある意味正直だけど、日本の諺や格言はイヤミっぽいのが多いなぁ。そりゃぁ「コンプライアンスおたく」も増えるわな。
<75ページ 第12章「できない理由」より>
イザヤ書には次のように痛烈な言葉があります。
「すべての我々の正義は汚れた下着にほかならない」(64・5)
うまいこというわー。というコメントだけで終わろうと思ったのだけど、もとのニュアンスでは「女性の生理で汚れた下着」という表現であるというのをウェブの記事で読みました。このケガレに対する感覚はリグ・ヴェーダと同じね。
<197ページ 第32章「対話の庭」より>
忘れてはいけないのは、パウロが、「自分で自分を裁くこともしません」と言っていることです。
人の心には、二種類の方向があるようですね。
どちらかと言うと、自分のしたことを常に高く評価し宣伝したくてたまらない人と、ともすれば自分のしたことは、失敗ばかりだと思いがちな人とです。そのどちらも正しくないのだ、とパウロは言われました。
私たちはいい気になる必然はいささかもなく、ノイローゼになる思い上がりもほとんど必要ありません。人間は皆、似たりよったりのものだという、それこそ「連帯感」が、私たちを人間にしてくれるのです。
後半の文章は沖先生みたいだ(笑)。
<202ページ 第33章「人を思い上がらせる知識」より>
「自分は何か知っていると思う人がいても、知っていなければならないようには、まだ知っていないのです」(コリント人への第一の手紙 8・1)
友情に関しても、自分がまだ相手をほんとうに知ってはいないと思うこと。これが友情の基本だという気がします。どんな親しい友人であれ、自分はあの人を知っていると思うことじたいが恐ろしいことですし、非礼でもあるのです。
SNSを使う人が増えてから、非礼とかそういう次元を超えすぎている感じがします。わたしにはもう「友達」は居ないのではないかと思うほどのカオス。名前以外の情報を何も知らなくても、「あのアーサナでここがこうなる○○さん」ということが瞬時に出てくることのほうが「わたしはこの人を知っている」と感じます。
人間関係のむずかしさは時代のコミュニケーション方法とともに変わっていくものだけど、聖書は人間同士のことがたくさん書かれてる。よくこんな昔にここまで細かい人間関係を記録したもんだと思う。
わたしはインド思想の「人間の仕様書」のような書物を好んで読んできたので、聖書の教えに触れると「こんなにメロドラマっぽいの?!」とちょっと驚きます。