うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

空海さんの顕教密教解説とバガヴァッド・ギーター


ヨーガの歴史や思想の研究をすると、結局いつも「空海さん、キャー☆」ということになってしまう。
ヨーガの古典を読めば読むほど、特に11世紀以降のハタ・ヨーガの書物は「あ、これ即身成仏義にあるやつだ」とか、「般若心経秘鍵にあったのと同じニュアンスかな」ということばかりで、空海さんが



 平安時代にすでに輸入済みだよーん♪ ぐふふ。



と微笑んでいそうな、そらおそろしいばかりの存在がズシンとのしかかってくる。
お遍路をしなくても、同行二人の意味が沁みてくる。
パソコンの前に居ても同行二人。バスや電車の中にいても同行二人。逆立ちしてても同行二人。
おそるべし。いつもいる。しつこいっ!



そのくらいすごいレベルの叡智の輸入を8世紀に完了させていた空海さん。
空海さんの書のなかに、わたしの大好きなQ&Aがあるので紹介します。
空海さんの書物はあえて仏教的解説を見ず、ヨーガ目線で感じるステップを踏むようにしています。日本の古文はそんなにわかるわけではないのですが、解説のない聖典を読んでいます。「Don't think, feel.」でね。


以下は、「弁顕密二教論」という書物にある、Q&A体裁の記述なのですが、ちょっと勝手な解釈で説明を入れますね。
そのまえに、「弁顕密二教論」は以下に引用する部分以前までのところで、顕教密教の相違を説き、これまでに日本にあった顕教よりも、自分の持ってきた密教の方が本物だといっているという解釈があるようですが、わたしは細かいニュアンスが気にかかる。

問ふ、若し所談の如くならば、法身内證智の境を説きたまふを名づけて秘密といひ、自外をば顕といふ。
何が故にか釈尊所説の経等に秘密蔵の名あるや。またかの尊の所説の陀羅尼門をば何(いずれ)の蔵にか摂する。


答ふ。顕密の義、重々無数なり。若し浅をもって深に望むれば、深は則(すなわ)ち秘密、浅略は則ち顕なり。このゆえに外道の経書にもまた秘蔵の名あり。

この書の中では「すなわち」という言葉に、「則」「即」のふたつの字が使い分けられているのが味わい深い。「則」はインド思想のベースにある「天則」、梵(ブラフマー)の存在を想起させます。このあと空海さんは、顕密論を淡々と「それはあくまで比較だ」と語ります。


如来の所説の中にも顕密重々なり。若し佛(ほとけ)、小教を説きたまふをもって、外人(げにん)の説に望むれば、即ち深密の名あり。大をもって小に比すれば、また顕密あり。一乗は三を簡(きら)ふをもって秘の名を立つ。総持は多名を選んで密號(号)を得。法身の説は深奥なり。應化の教は浅略なり。このゆえに秘と名づく。

「秘」という語はそれ以上にオープンなものが存在した時点で「秘」になるよねと、ドライです。
ここからちょっと本気モードに入っていくのですが


いはゆる秘密にしばらく二義あり、一には衆生秘密、二には如来秘密なり。衆生は無明妄想をもって本性の真覚を覆蔵するが故に、衆生の自秘といふ。應化の説法は機に適(かな)って薬を施す。言は虚しからざるが故に。このゆえに他受用身は内證を秘してその境を説きたまはず。

「マーヤーのなかで言葉として語られる秘密」と「マハー・ブッディとしての秘密」を説いているように読み取れます。マハー・ブッディとしての秘密というのは、サーンキャでは「プラクリティ・かき乱すもの」と「アハンカーラ・自我意識」のこと。そういう読み方をすると、「言は虚しからざるが故に」というところがズドーーーンとくる。くるわー。
そして、空海さんはここからまとめに入っていくのですが


則ち等覚も希夷(けい)し、十地も離絶せり。これを如来秘密と名づく。かくの如く秘の名、重々無数なり。今秘密と謂つぱ、究竟最極法身の自境をもって秘蔵となす。また應化の所説の陀羅尼門はこれ同じく秘蔵と名づくと雖(いえど)も、然も法身の説に比すれば、権にして實(じつ)にあらず。

空海さんは、力強いコピーライターだったと思う。「究竟最極法身の自境」って! そのあとに太くしっかり結論づけられる短い言葉への期待のさせ方として、権威好きの人々にこれ以上のワクワク感はないでしょう、というくらい盛り上げておく。異様な営業センスというか、そういうものを感じることがあります。
そして、

秘に権・實あり、應(まさ)に随(したが)って摂すべきのみ。

密教のなかにもさらに顕教「権」、密教「實(実)」があるのだと、二重構造を三重構造に持ち込むような巧妙さ。



ん?! この巧妙さ、どこかで見覚えがあるぞ……。
やっぱりこの人だ。いや人じゃない。
ジャイアンだ。いや、ジャイアンじゃない。



バガヴァッド・ギーターのクリシュナおじたん!


右の、チョビヒゲで老けてるほうがアルジュナ。おじたんは聖バガヴァン・神だから年齢を超越しているの。
青いのは体調が悪いわけじゃないのよ。これもまた、神だから〜。
(画像はインドの大道社的まんが 「THE GITA」amarchitrakatha社 より)



<バガヴァッド・ギーター 上村勝彦・訳 より 15章16〜18節>

  • 世界にはこれら二種のプルシャがある。可滅のものと不滅のものである。可滅のものは一切の被造物である。不滅のものは「揺ぎなき者」と言われる。
  • しかし、それと別の至高のプルシャがあり、最高のアートマンと呼ばれる。それは不変の主であり、三界に入ってそれを支持する。
  • 私は可滅のものを超越して、不滅のものよりも至高であるから、世間においても、ヴェーダにおいても、至高のプルシャであると知られている。


空海さんは「己(おのれ)の長を説くことなかれ」という言葉を残したような人だから、クリシュナおじたんみたいな展開にはならなかったわけだけど、おじたんのほうはこのあと、いつものパターンでこうなります。



<バガヴァッド・ギーター 上村勝彦・訳 より 15章19&20節>

  • 迷妄なく、このように私を至高のプルシャと知る人は、一切を知り、全身全霊で私を親愛するのである。
  • 以上、私は最も秘密の教説を説いた。これを知れば、人は知性ある者となり、目的を達成した者となろう。アルジュナよ。

あれ?! オチ、一緒? 「最も秘密の教説を説いた」って。


キャラも書物の構造も違うけど、「秘」の三重構造という点で、とても興味深い共通性です。
空海さんはサンスクリット語を学んでから恵果師匠に真言密教を学んだといわれているので、仏教思想の分解理解はほかの遣唐使とは比にならなかったはず。圧倒的に遅れた考えのところに秘儀を説いていく、かつ権威好きの人が仏法の未来を左右する中で。って、いくら天才と認められた後とはいえ、日本での布教活動は精神的には孤独でアウェーだっただろうなぁ。
この書は最澄さんとの決別(理趣経のアレ)の後に書かれた書という点で読んでもおもしろいのですが、わたしはここにバガヴァッド・ギーターと同じ技術があることに興奮してしまいます。そして、生身の人間であった空海さんが、ここまで濃く深い思想を持ちながら「己(おのれ)の長を説くことなかれ」と説いた背景を思うと、なんというか、泣けてくる。泣けてくるんですよ!
今夜はこれを肴に呑むことにするわっ。

(参考:「弁顕密二教論」の引用は三省堂の「佛教聖典」からとり、旧字を現代漢字にし、理解しにくすぎるところは補正して記述しました)

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