うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

山本七平の日本の歴史(下) 山本七平 著


世に残された歴史の記述って、その著者の中にある思想を読み解くことを意識的にやっていくとここまで読めるんですね。圧倒されました。上巻にひきつづき夏目漱石の「こころ」の「K」と後醍醐天皇がもつ共通の支配力についての記述がありますが、全体としては「太平記」の世界の読み解きに引き込まれます。

「こころ」の「K」のところを引用すると

<265ページ 建武の「思想」と「虚構」 より>
ある一つの思想がある人のなかで高度に論理的に「結晶化」されていると認定されただけで、その人は「舞台」腕の権威となりうる。従って、これを権威と認めた者は、その前に拝跪し拝観しなければならない。たとえそれを拒否しても、自分がタッチできぬ対象から自分が影響をうけていることによって生ずる内心の劣等感は、克服し得ない。「先生」は「K」に劣等感を抱かざるを得ず、幕府は後醍醐帝に劣等感を抱かざるを得ない。

「拝跪し拝観し」というあたりが、たまらないですね。ひざまづく(跪)と。



「いわば政治的イデオロギーへの宗教的信仰」と、日本人の精神性についても、ばっさり。

ひたすら自己を責め、そして自己を責めることで自ら満足して諦めるという形になっても、自己のもつ思想を再検討しようとはしないし、その思想で現実が処理できないのは、現実の思想を処理している人間は別の思想をもっているからだ、自分の思想にはその社会的基盤がないのだ、とも考えないのである。(213ページ)


 前方に先進国とか先進人民国とかいう自己の未来像を置き、後方には歪んだ歴史という自己の出発点を置く。同時にそれを「善」「悪」と規定する。そして、このような形で自己を規定することによって、異常なほど強烈なエネルギーを起させることを日本人に教え、それを一つの基本的な自己規定として定着させたのが、後醍醐帝の最大の功績であったといえる。そしてこの点では、全日本人が今でも「建武中興」の忠実な子孫である。そして、こう自己規定させている思想は、日本人にとっては "虚構" ではない。従って、この考えを否定する言葉を、日本人は絶対に聞きいれない。もしもその点にふれれば、罵言雑言を発しても、相手を黙らせ、その言葉を自分の耳に入れまいとする。その点全日本人は、今なお、正成以上の忠臣である。(281ページ)

「全日本人は」は、いまでは語調が強すぎるけど、メディアの報じかたや素直に促されて感情を高ぶらせる人々はずっと忠臣。油断するとだれでも忠臣。となるとやっぱり「全日本人は」でいいのか。




81ページ「権威と実状」という章では、後醍醐帝の時代に完成された日本の正統思想と呼ぶべきかもしれないものについて、「権威の崩壊」を下記のいずれかにならざるをえない。とし

  1. 新しい権威を他に求める
  2. それまでの権威に基づいて自らの過去を再構成し、その再構成に基づいて、この権威が歴史的基礎をもつと逆に証明して「日本こそ中国だ」式の言い方をする
  3. すべては誤っていた、すべては終りだ、「世も末」だ、という一種の「末法思想」すなわち「日本的終末感」になる


そのうえで、87ページ「末世と終末」の章で「日本的終末感」について

 明恵上人の言った「末法」の意味は端的にいえば「現在は末法の世だから、これをブッダ在世のころの正法の世に返そう」という意味である。
 こういう意味なら、これはあらゆる宗教に存在する一種の宗教運動であって、表われ方はさまざまでも、非常に特異な現象ではない。ユダヤ教のハンディズも、キリスト教徒のピュリタン運動も、また絶えずくりかえされる「原始キリスト教に帰れ」といったさまざまの運動も、また日本教徒が絶えず口にする「初心に帰れ」も、すべて、現在を「末法」と規定し、それを前提として「初法=正法」に帰れという主張である。
 親房は非常にまじめな仏教徒であるから、彼が「世も末になりにけるにや」といった場合、あくまでもこれが「初めに帰れ」という考え方が前提にされているはずである。

とし、『ダニエル書』にみられる終末思想=一種の救済思想との違いを「奥のほうにあるもの」を説明していく。このように。

 前にものべたが簡単にいえば、資本主義体制という「今の世」はその終末に清算され、共産主義社会という「次の世」が生れるから、現在の生き方を将来のその終末と審判で規定して生きる、という生き方である。
 もちろん親房の「初法がえり」にはこういう要素は皆無だし、現在の日本語の「終末」という言葉にもこの要素はないと思う。従って、天皇制は「百代」で終り、そこで清算されて、別の世が始まるから、人々はみな「今日を初めとして」その世を意識し、それへの準備のため、また「次の世」がいかにあるべきを考えるために生きよう、という発想は、もちろん彼にはない。これは彼だけでない。日本の思想家のすべてを点検しても、私の調べた限りではない。
 従って今は「末法」だから「初法」とか「初心」とかを一つの権威として仮定し、そこへ帰れと説くわけであろう。それならば、初心に戻って行けと主張されるすべての思想は、常に「権威」をどこかに求めた多種多様の『神皇正統記』になってしまうだろう。では「初心」や「初法」がなぜ権威なのかと問えば、だれも答え得ないのである。

この本すごすぎ。
わたしはヨガやインドに親しむ日本人の知人友人を見ているとさまざまなことを思うのですが、そのなかの見え方のひとつの雛形として「もともと輪廻思想を日常的に身近に感じていない日本教の人がアメリカの子会社の福利厚生でインドのヨガをしていて、日本人同士の "ヨガってすばらしい" のプレゼンテーションは "いいね!" がよくつきそうな儒教テイストでやっておく」という感じの見え方があります。ここを読んでいて、そういう構造をすっきり説明してもらったような気がしました。




下巻は「記述を読むということ」について深く考えるきっかけになる題材が多く、太平記の読み方には、うなるところも興味をかきたてられるところもありました。

 おそらく『太平記』の著者は、天皇とは、政策・政略等に超然とした何らかの「秩序の象徴」であるべきだと考えたのであろう。従って、天皇が自らの政略を何ぴとかに向って釈明するなどという行為は、この著者にとっては、文字通り政権維持の覇道であって、王道(何らかの秩序維持)から完全にはずれた好意であり「天皇制」の師であった。従って、資朝・俊基が責任を負わされた最初の「君ノ御謀叛」のとき、後醍醐帝が高時に釈明文を送ったことに対して、著者は相当辛辣な批判をもっていたと思われ、それはこれを読んだ利行の頓死という創作に表われている。(としてこのあとその部分が引用・解説される。145ページ)

それに続く「日本開闢は天台山より起る」の章では『太平記』のなかの本地垂迹説に基づく天皇観の記述を拾い、

本来の本地垂迹説ではブッダが人々を救うため、仮に日本の神の姿となって現れる
 ↓
なのにここでは天照大神が仮にブッダの姿になって現れる
(理由は明らかではないが、もちろん著者の無知によるのでなく、著者はそれと知りつつ逆転させているはず)
 ↓
魔王が集ってこれを妨害
(これもまた逆転している)
 ↓
天照大神はこの妨害をやめさせようと、自分は仏・法・僧に近づかないと誓約
 ↓
悪魔が怒りをこめて、「未来永劫、天照大神の子孫である人をもってこの国の主としよう」とする


という流れが紹介されています。おもしろい!
そして太平記の著者は「今に至るまで天皇家が一系で続いている理由は、実はこれである」と主張していると解説されていました。わたしはこの部分を読んで、ヴィシュヌ派と仏教の話みたい、と思い、もともと神道ヒンドゥーは似ていると思っていたけど、似ているのはここかも、と思いました。
このほかの場面でも「表現の手段として神話的描写を援用しつつ、自分の思想をのべているとも見られる」という説明記述をされているところがあり、日本の歴史書も、ここまで読み込める力があると、楽しいんだろうな。『太平記』のなかの「北野通夜物語」は当時の三つの思想(朝廷的儒者的思想・武家的思想・僧侶的思想)を三人がそれぞれ意見を述べる形になってるものがあるそう。三教指帰を読んでいたとき、こういう昔の教えの本は、感動してしまうポイントから「自分の中の種」が見えてきて、たまにこわくなったのだけど、同じような感覚を得るだろうか。
この本の中で何度か語られる「宗代の思想の影響は世界的で、西欧は自らが自覚している以上にその影響を受けている。」という部分も、すごく気になった。死ぬまでにわかるようになるかな。


わたしはこの時代の歴史に明るくないのでスラスラとは読めませんでしたが、「ついていきたい」と思わせる凄みがあり、下巻も読了。開いた瞬間、漢文の多さに挫折するかと思ったけど、慣れてきたらつまづかずに読む練習をしたりして。「一」「二」と「レ」で行ったりきたりしているうちに認識パズルのリズムが少し英語っぽっくなってくるのもおもしろかった。言語脳の運動神経って、あるんですねぇ。


▼わたしは古いバージョンで読んだけど、最近新装版が出てます