1980年の本。「イスラームの原理性」「理念と現実」「 イスラーム再興の可能性」の3章で構成されています。
これまでその思想の原理や宗教的日常について書かれた本に触れてきましたが、この本はムハンマド以降の戦争と政治、世界のなかでイスラームの抱える現状(1980年の時点)まで包括して書かれています。「現代のイスラーム」理解に、一歩近づけたかな。
イスラーム社会には戦後の日本との共通点があるけれど、「グローバリズム」の波の感じ方の土台の精神性に圧倒的な違いがあるように感じました。
この本は、前半で啓示宗教としてのイスラームがユダヤ教、キリスト教と対比して書かれており、中盤以降はイスラームと大乗仏教との共通性に触れながら、仏教そのものとの違いも語られます。軸をイスラームに置きながら、仏教理解の素地をもって世界の宗教全体をじわりじわりと理解していく流れ。
1980年の本なので、現代イスラームの地点は「イラン革命」までのところでまとめられています。わたしは中東の歴史に疎かったので、この本を通じてイラン革命までを学びました。
日本の戦後と似た状況を持ちつつ、イランは「しかし民衆は瞞されなかった」という。徹底的な植民地化の波とともにやって来る「西欧の誘惑」に揺れたところまでは、思いのほか日本と似ていると感じました。が、その後の展開が違う。
<189ページ イラン革命と公共善の関係 より>
西欧流の自由、平等、博愛の精神はそれ自体でもちろん優れたものであり、学びとるべき点は多々あった。それはいかにして実現可能であろうか。不幸にして彼らは、民主主義を説く西欧から民主的な待遇を受けたことは一度もなかった。また西欧主義を標榜する為政者がもたらしたものは、結局のところ圧政にすぎなかった。このような歴史が民衆に、イスラーム再評価の機縁を与えるのである。
社会への落とし込み方のところで、冷静さと誠実さを感じる。
最終章の「イスラーム再興の可能性」に何人かの思想家が紹介されているのですが、なかでもフランスに留学・帰国後に投獄、謎の死を遂げたイランの思想家アリー・シャリアーティーの言葉は、ズシンと響く。
<「シャリアーティーの思想」の章より>
「友よ、ヨーロッパを放棄しよう。胸のむかつくようなヨーロッパの猿真似はやめよう。人間性についてたえず声高に語りながら、見つけしだい人間を破壊するヨーロッパに別れを告げよう」
「宗教社会に見出されるすべての不幸は、宗教がそのもの本来の精神を変質させてしまったという事実に由来している。その役割は変質し、宗教がそれ自体で目的となってしまったのである」
この指摘に、グローバル化って、なんだろう。と思う。わたしが初詣神道・葬式仏教から一歩踏み出して、あらためて学びたいと思う理由と似ている。
<189ページ イラン革命と公共善の関係 より>
借りものの民主主義を外から接木するか、それともすでに生気を失った伝統的理念を蘇生させるか。そして人々は逡巡することなく後者の道を選択したのである。
(中略)
イラン民衆は、このような経緯(神秘主義のスーフィズムまで持ち出して西欧化を図ろうとしたシャーによる政治の時代のこと)を経て、自由、平等、博愛の精神の確立のためにイスラームを選びとった。「真理は一つ」論者は、イスラーム世界に啓蒙思想家もなく、デカルトも存在しなかったゆえに後進的であるといった評価を下す。異質の文化圏においては進歩、発展の形態も当然異なるという事実に思い至ることのない観察者たちにたいして、イランの民衆は充分な説得の機会をもたないが、それはあくまでも二次的な問題にすぎまい。伝統的なものに依拠する精神的主体性確立の試みは、当然伝統と直結した文化的興隆につながるものであろう。イラン革命の主役を演じたウラマー、つまりイスラーム文化人は、第一義的に知識人である。イスラームの伝統諸学に通暁する彼らは、営々とその維持、発展に努めてきたが、その西欧への紹介は充分でなく、日本の場合はほとんど皆無であるといってよい。ただし自らの退嬰性を自覚している彼らは、それを除去するため日夜西欧文化の研鑽に励んでいるのである。
この本では、信仰の心の歴史として日本とは別の道を選んだイスラームについて書かれています。
最終章に至るまでの間に、ムハンマド以降のカリフとその力の敗退、各国独立の時代、カリフ職は俗権の長・スルターンに変化していく経緯が語られます。そしてその後にイスラーム文化人・ウラマーが力を持つようになります。この二重権力の流れに、道鏡や信西を想起する。
宗教の歴史=政治の歴史であり続けるイスラーム社会。「長いものに巻かれろ」ではなく、「長いもののいいところはなんだ?」と素直に学びつつ、「長いものの人たちは、僕たちのこと平等に見てるんだっけ?」という当たり前の疑問から原理に立ち返るイスラーム。心が帰るところがあることが羨ましく思えてしまうのは、なぜだろう。