うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

信仰の現場 〜すっとこどっこいにヨロシク〜 ナンシー関 著


この著者さんの本は20代のころにほとんど読んでいて、この本も読み始めてから「ゾロ目マニアを探せ!」の章で、「ああこれ読んだことあったわ……」と気がついた。でも今また読み返すと世の中の状況もわたしの状況も変わっているので、刺さるポイントがぜんぜん違っていた。


この本の主旨が、はじめの章「Big! Great! 永ちゃんライブ」の冒頭で語られています。

何かを盲目的に信じている人にはスキがある。自分の状態が見えていないからだ。しかし、その信じる人たちの多くは、日常生活において、そのスキをさらけ出すことを自己抑制し、バランスを保っている。だが、自己抑制のタガを外してしまう時と場所がある。
(中略)
日常生活では意識的に保とうとしなければ「傾いている」と世間から避難される彼らのバランスも、その場ではその「傾いたまま」の状態で「正」であるという解放感。肩の荷をおろしたように無防備に解放されるのである。
こういった「お楽しみのところ」に、大変恐縮ではあるが、私が潜入させていただく、というのが主旨である。

この本がでたのは1994年で、19年前(そんなにか)。なんですね。いまこの本を読むと、ものすごく「ネットっぽいことを本でやっていた」ということがよくわかる。



わたしはこの本の中によく出てくる表現が、ナンシー関という人の感覚をよく表していると思うのだけど、それは

<24ページ 絵本の館クレヨンハウス より>
2階までは「絵本的なものなら何でも来い」だったように、この3階は「フェミニズムなものなら何でも来い」である。何か極端だよなぁ、バランス悪い。

そう、バランス。ここへの違和感の感覚が半端なく微細。ヨギなんだよねぇ。


<108ページ 突撃! ウルトラクイズ より>
私は確かに、ニューヨークへは行きたくなかった。絶対行きたくなかった。しかし、正解した時はおどろくほど嬉しかった。完全に矛盾した私の心情は、正解という絶対的快楽の力の証明といえる。

どこまでも客観的。


<138ページ ドッグショー。トップブリーダーの謎 より>
犬を引いて走る時に邪魔にならないようにか、ブリーダーにはスリムジーンズをはいている人が目につく。ただのファッションセンスかもしれないけど。

わたしは競馬のパドックで同じようなことを感じたので、こういうなにげなツッコミが好き。


<147ページ 御成婚パレードの人波にもまれて より>
私は、大勢の人が半蔵門の駅のまわりで帰るに帰れなくても別段平気な顔で延々30分以上も時間を潰している様子を見ていたら、ちょっと暗い気持ちになった。これは私の中のバランスと、主にマスコミの作ったバランスのズレによるものである。沿道に馳せ参じて日の丸を振り歓声を上げることを「ニュートラル」とするマスコミが作ったバランス(来ていた人のほとんどにとっても、それがバランスの規準になっている。だから来たのだ)に対して、私にとってのニュートラルは "パレードなんかは見に行かないこと" だ。

今はもうこういう表現は無理なんじゃないか、という世の中。こういう正直芸を読む感じが楽しくてワクワクして、ナンシー氏の本を買っていたんだ。そうだ。そうだった。



つづき

この日の夕方のニュースなどで、どこかの公園でものすごく地味に「反天皇制」の人たちの集会も行われていたことが伝えられていた。そのヘルメット姿の活動家たちと、沿道で日の丸を振る人たちは、私にとっては(正反対ではあるが)同じなのである。同じ、という言い方はへんか。正と負の違いだけで同じ数値に思えるのだ。だから自分をニュートラルだと思っている私は、日の丸を振るという行動にものすごく抵抗があるし、ニコニコしながら振ってるのを見ると、何も考えてないとは知りつつも「おいおい」と思ってしまうわけだ。

どこまでも個人の感覚について素直であるだけでバランスの話をしているのだけど、いまだと蜂の巣状態にされそうな内容。
いまはバランスのことを人前で語れない世の中だから、ヨガの話もなにげにむずかしい。「あそこまでいくとヘルシー・ハラスメントだわ」とヨガ仲間にボヤく場面にすらすごく気をつかったりね。このあとは、超・密教時代がやって来るよきっと。


<177ページ 発明一匹狼みたちの梁山泊 より>
この「発明学会」は、マヌケなところはあるにせよ、良心的であると思う。無料相談というエサをまいておきながら、あからさまな勧誘もなければ押し売りもしない(私は用紙セットを買ったけど)。もし会員が大発明をして巨額のパテント料や実施料を得るに至ってもロイヤリティを取ったり仲介料を取ることも一切しないそうだ。
あとドクター中松とは全くの無関係であると強調していた。真面目に発明と対峙する発明学会。それもまた味わい深くはある。

いいこともそのまま書いてる。


<187ページ 古き良き行列 より>
毎月15日、歌舞伎座には家でぬくぬくと電話のリダイヤルボタンを押し続ける方法をとらずに2日も3日も徹夜をする「現場主義者」が列を成すらしい。最も厳しい条件下におかれる1月2月でも、その数に変わりはないと言う。

ワーディングにやさしさとユーモアを感じるくだり。ここは今では同じような状況をネット上で「情報弱者」という場面じゃないかなと思った。どのメディアも、バランス感覚を失った読み手の構成比が増えていくことで、ユーモアが殺されるか有料になる。こういうことを「おおらかじゃなくなる」というのだろうな。



この章は名作だと思う。結びを紹介します。

不思議な行列だった。顧客が高齢であるということが不思議を発生させるのか。屋根や風よけ、ストーブ、お茶のサービスを用意しながら、しかし客に「2日徹夜」という苦行を強いる。徹夜をしなくてもいいシステムにするのではなく、徹夜を補助することに徹するというのは、現在の方向性としては珍しい。野球のチケットとかでも最近は「徹夜禁止」だったりする。当日まで前売所の近くに人を近付けないように封鎖したりしている。
徹夜を安全に管理することの方が、ずっと手間がかかるからである。そう考えれば歌舞伎座はあえて大変なことをしているのだ。全部「チケットホン松竹」での電話予約制に切り換えても文句は言われないのに。何かあの行列、あのテントの中って、病院の待合室に似てたかもしてない。おじいさんも言ってたけど、並んで待つのも楽しみ、だと。

高齢化社会で必要になるのは、脱・効率化なんだよね。生命の火を燃やすための効率化。



この本は、あとがきも印象深い。

<199ページ あとがきにかえて より>
平成5年4月の「アジアインターナショナルドッグショー」潜入の経験は、のちの「愛犬家連続殺人事件」の報道を耳にするにあたり、何というか「なるほど」と思うところがあった。いや、愛犬家が危い人たちであったかとかそういうことではなく、むしろ逆で、「犬」というものが介在するとあまりに無防備に心を開いてしまう「無邪気」の異常さ。それは「ドッグショー」会場でもいたるところに見てとれ、それが妙な連帯感や、イベントとしての盛り上がりを感じさせる勢いみたいなものを構成する要素と、とりあえず受け止めていたのだが。
(中略)
閉じた小世界の異常な常識は、白日のもとにさらされるとやっぱり理解し難い「謎」なのであり、その「異常な常識」を「異常」と自覚できていない住人たちの危いバランスはやっぱりモロい。つけ入るスキだらけ。長々と「ドッグショー」の思い出を書き連ねてきたが、この件で、改めてそのへんのことを実感したことは確かだ。

ここはインターネットが登場することでかえって健康的になった部分があるかも、と感じた。
いろいろな分野の理解され難い「謎」が、白日のもとにちょこちょこさらされるようになって、かえって少しずつモロさをカバーしているような、そんな気がする。
「まあちょっと気持ち悪いけど、気持ちはわからなくないわ」ということが増えていくことはいいことだと思うので。


息抜きのつもりで手にしたのだけど、時代の変化のディテールを感じなおすきっかけになりました。