以前ここで紹介した「世界を信じるためのメソッド」と同じ、「よりみちパン!セ」シリーズ。20代の頃、この著者さんの本をものすごく読んでいました。
今回この本を紹介するにあたって、ひとつ、思いきってみようと思いました。中途半端に感想を書くのではなく、どの部分に何を思ったかを書くにあたっては、ヨギになる前の自分のことを書かないわけにはいかないんですね。お金と人間関係の話だから。
ここはヨガブログとして、わり書くことはオブラートにくるんできました。たまに私生活のことも書いたりしているけど、基本的にはみなさんとヨガでつながるブログ。という感じにしていました。
いまでも、ここに書くことによって自分が所属している関係組織に迷惑をかけることになるかもしれないことは、それはマナーとして伏せるけれど、でもまあ自分のこれまでのことについては、いいかなと。
ここから先は、もしかしたら親しみを感じて読んでくださっている人には、少々ドキドキするような感想があるかもしれませんが、それもきっかけ。すばらしい説法本です。わたしは大いに泣きました。
いくつか紹介します。
<38ページ 何にもなくても、認められたかった。何にもなくても、好きになってほしかった。 より>
そりゃあ、お母さんたちだって必死でがんばっているんだろうけど、それはどこにも行けない、諦めやグチとセットになっている人生に見えた。
「あんたのために、お母さん、離婚しないで我慢してるんやで」。
子どもにしたら、そんなことを言われてもせつないだけだし、「ずるい」って思う。
自分だけ被害者ヅラすんな。子どもにしたら、あんただって十分、加害者じゃ……。
ほんとこれよ。
<46ページ 真夜中のドーナッツ より>
「あー。みぃつけた!」
「おお。うまいぞ。理恵子も食べるか?」
いい匂いで、眠っていたわたしも目が覚めちゃって、一緒に食べる。
よくつくっていたのが雑炊。冷蔵庫にある白菜とかニンジンなんかを適当に入れて、ぐつぐつ煮るだけ。味の決め手は「ほんだし」。カツオ風味のあれを「これでもか!」って入れたのが、お父さんの雑炊だった。
わたしにとって、たまにしか帰ってこないお父さんがつくる料理は「外食」で、おかあさんがいつも食卓に並べるおさしみや煮しめとはちがう、特別でよそいきの味がしたもんよ。いつ何をつくるのか、予想もつかない。でも何をつくっても、本当に、おいしかった。
いつも、こういうお父さんならいいのに。
これは、著者さんの二番目のお父さんのエピソード。わたしも、まったく同じようなことが何度もありました。今もそう。
<48ページ お父さんが、行ってしまった日 より>
終わりは突然やってきた。
お父さんが首を吊って、死んだ。
その日は、わたしが東京の美大を受験するはずの日だった。このことはあとでまとめて話すけど、わたしは高校三年生のとき、学校を退学になっていた。それで一年かけて大検をとって、夢にチャレンジするはずの日に、お父さんが死んだ。(中略)
お父さんが会社を興したカネも、もともと、お母さんが貯めた貯金だった。
お父さんがバクチにつぎこんだカネも、もともと、お母さんの貯金だった。
それなのに、お父さんは羽振りがいいフリをして、見栄をはった。(中略)
お父さんがわたしの貯金に手を出したときのことは忘れられない。バイト代やお年玉、そして学食のお釣りをコツコツ貯めた、たった十二万円の金額の貯金通帳をひったくるようにして持っていった。お父さんはそれを入れてぜんぶで四十万円を持って、隣町にある競艇場に行くという。
「これが人生最期の大勝負じゃ。これで負けたら、俺は死ぬ」
わたしは思った。そんな勝負に、勝つわけがないだろう。この人はもう、死んだほうがいい……。
終わりが来たののがうらやましい。
<108ページ 他人が、キミのことを教えてくれる。 より>
「才能」っていうのは、そんなふうに、自分だけじゃわからない、見えてないものだと思う。自分で「こうだ」と思い込んでることって、案外、的外れだったりするからね。
何でも仕事をはじめたら、「どうしてもこれじゃなきゃ」って粘るだけじゃなくて、人がみつけてくれた自分の「良さ」を信じて、その波に乗ってみたらいい。
「消去法」とか「流れにまかせる」ようなこだわりのなさというのは、いっけんポリシーがないように見えても、丹田さえできていれば、そこからバランスできるように思います。
<146ページ 借金。地獄への片道キップ より>
ギャンブルに追い詰められた父親を見ていたはずのわたしが、どうしてギャンブルにのめりこんだのか。その理由は自分でもよくわからない。
ただ、もしかすると、ずーっと考えつづけていたのかもしれない。
人を、人でなくしてしまうものはいったい、何なのか?
「人を、人でなくしてしまうものはいったい、何なのか?」というのは純粋に興味の対象として力を持っているんだろうな。
<166ページ 子ども時代からの金銭感覚 より>
わたしは思うんだけど「損したくない」ってことばかり考えていると、人って、ずるくなるんだよ。少しでも人より得しようって思うから「だったら、ズルしちゃえ」っていう気持ちが出てきてしまう。ささいなきっかけで、それがどんどん卑しい行為に結びついてしまう。
これは自分にもそういうところがあるから、スワミの言葉としてメモしました。
<170ページ 「カネ」って、つまりは「人間関係」だ。 より>
お金との接し方は、人との接し方に反映する。
お金って、つまり「人間関係」のことでもあるんだよ。
たとえば、「こんなことにお金を使いたくない」とかっていう気持ちは、どこか「差別」と結びついている。そういう自分への問いかけは、しんどいけれど、けっこう大切。
<180ページ 育った町の、それぞれの「ぼくんち」 より>
「差別を描いてみたい」
『ぼくんち』を描くにあたって、わたしは自分が編集者にこう言ったのを覚えている。
豊かな人は貧しい人の気持ちがよくわからないし、貧しさの中で、人は自分よりもっと貧しい人をバカにするようになる。わたしは、育った町でそういう現実をいっぱい見てきたからね。
そう、金と差別は切っても切れない。愛とお金のことを考えるよりも、よっぽど現実的でシャンティ。
<185ページ 必修科目としてのアルバイト より>
世の中には学校に行ってるだけ、机に向かっているだけじゃわからないことが、それこそ山のようにある。
それなのに「自分にはわからないこと、知らないことが山のようにある」ってことさえ、子どもにとっては、なかなか気づけないような時代になっているんじゃないか。
だって今の時代って、ネットでもあふれんばかりに「情報」があるしね。ひとつところでじっとしているだけで、何かを知って、何かを経験したような気にだって、簡単になれてしまう。
でも実際に自分の手と足を動かしてごらんよ。
頭の中で考えていたのとは、きっと、ぜんぜんちがうはずだから。
宇野千代さんと同じことをおっしゃっています。(「行動することが生きることである」 宇野千代 著)
<195ページ 逃げちゃってもかまわない! より>
人の気持ちと人のカネだけは、アテにするな!
「合コンでは男子におごられてあたりまえ」という延長に、「左うちわな将来」を思い描いているんだとしたら、「いざ(旦那が)失業」「いざ離婚」となったときに、あなたはどうやって生きていくんだろう。
一度だけ、「合コン」というのに行ったことがあります。有名な証券会社の人でしたが、会ったその日に金額とセットで「愛人契約」を打診されてびっくりしましたが、金だけじゃなくてセックスのほうも自信があるとおっしゃってました。ヨガをはじめる前のことです。
<198ページ 自分の「真ん中」はどこにある より>
「自分がやりたいことがわからない」という人は、やみくもに手探りをするよりも、このふたつの「あいだ」に自分の落としどころを探してみたらどうだろう。
「カネとストレス」「カネとやりがい」の真ん中に、自分にとっての「バランス」がいいところを、探す。
それでも、もし「仕事」や「働くこと」に対するイメージがぼんやりするようならば、「人に喜ばれる」という視点で考えるといいんじゃないかな。自分がした仕事で人に喜んでもらえると、疲れなんてふっとんじゃうからね。
そうそう、バランス。カルマヨガですよ。
<210ページ ごはん、やきそば、菜っ葉と豚肉 より>
アジアから帰ってくると、わたしは、まるで日本のほうが「外国」みたいに感じられてとまどってしまう。
アジアの貧しい国の子どもたちは仕事どころか、自分の生き死にも選べない。人間としての最低限の権利もプライドも保障されていない生活の中で、命を削るような仕事をして、わずかなお金を手にする。
わたし初めてインドから戻ったとき、いろいろ感じすぎてこんな感じだった。
<227ページ そして、「鴨ちゃん」のこと より>
(「鴨ちゃん」は著者さんの元旦那さん。アルコール依存症で、著者さんとの離婚の後、ガンで亡くなられました)
働いていてよかった。自分の仕事があってよかった。そのおかげで、病気だった彼をちゃんと看取ることができた。子どもたちにも、お父さんのいい記憶だけが残った。
お金には、そうやって家族を、嵐から守ってあげる力もあるんだよ。
いざというときに、大切な誰かを安心な場所にいさせてあげたい。
号泣してしまいました。
<234ページ おわりに より>
もししたら「働くこと」がわたしにとっての「宗教」なのかもしれない。
だとしたら、絵を描くのが、わたしにとっての「神さま」ってことになるのかな?(中略)
覚えておいて。
どんなときでも、働くこと、働きつづけることが「希望」になる、っていうことを。
ときには、休んでもいい。
でも、自分から外に出て、手足を動かして、心で感じることだけは、諦めないで。
これが、わたしの、たったひとつの「説法」です。
サイバラ式カルマヨガ説法。
今日はものすごく私的な感想になってしまったけど、まとめるとヨガとインドなのよねぇ(強引?!)
「働くこと」は、神道の由来で「はた」を「らく」にすることだって、葉室さんの本に書いてある。
(参考:神道と日本人 葉室頼昭 著)
現在は「はたらく」というと、労働という考えがありますが、「働く」という漢字を書くから本当の意味が分からないのです。これは「はた」と「らく」という日本語です。すなわち「はた」とは周囲のこと、「らく」は楽しむという意味ですから、周囲の人を喜ばせる、ということが日本人の「はたらく」という意味です。
いつも心に「日本人のカルマヨガの志」を、忘れずにいたい。
そんなことを思う、ものすごくズドンな一冊でした。
子供時代の辛い経験は一生引きずるかも
後書きは絶対先に読まないでください
確かに
本当に”本当”で”必要”な話