うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

内面への道(「イスラーム文化 」井筒俊彦 著より)

第一章(宗教)第二章(法と倫理)の流れを踏まえて、最後の第三章ではイスラーム密教的な部分に入っていきます。イスラームの中にある複数の潮流についての説明が兼ねられているのですが、この章を何度も読み返すことで、じわじわと全体感の理解が深まっていく。何度読んでも「なるほど」と思うことが発生する、味わい深い章でした。
第三章の主題は、端的にいうと「イスラームのなかのヨーガ的・仏教的な側面」のこと。「イスラーム=厳しい戒律が社会生活の法と結びついている」というイメージをもっている人は、「おっとびっくりヨーガっぽい流れもあるぞ、イスラーム」という印象を抱くことになるでしょう。


先にこの章の概要をつかむために、イスラームに関する用語のなかでも、細かくて興味深いと思ったものをピックアップします。

  • ウラマーはアーリムの複数形
  • ウラファーはアーリフの複数形
  • ともに「知者」の意味
  • アーリムには「学者」という訳語が合う
  • アーリフには簡単に言えば「霊感によって物事の内面的リアリティーを把握して知っている人」のこと

アーリフは、「スワミ」という感じなんですね。第三章は、このウラファーたちによる内面的宗教について語られているので、「内面への道」という章になっています。


<172ページより>
 ウラマーたちがイスラームを社会制度的形態に発展させつつあったちょうどそのころ、それと並んで、そのまったく逆の方向に向って、内面的視座とでもいうべきものを重視していこうとする立場が、イスラーム文化形成の底流として強力に働き始めておりました。

特定のだれかや偶像を崇拝しない、新しい宗教ならではの展開。

<176ページより>
 「内面の道」を行く人々の間に生まれ育った文化パターン、とくにこれからお話するイラン的イスラーム、すなわちシーア派イスラームの文化パターンに全体としてどことなく悲劇的雰囲気が纏綿し、何か痛切な運命的悲壮感のようなものが流れているのはそのためであります。
シーア派の始祖、第一代目のイマーム、アリーとその二人の息子、ハサンとホセイン、わけてもホセインの死をめぐる「カルバラーの悲劇」。シーア派はその起源においてすでに悲劇的です。
そしてそういう悲しく痛ましい起源にまで遡るシーア派の人々の歴史感覚は著しくパセティックです。預言者ムハンマドが世を去って以来、自分たちの歴史、というよりイスラームの歴史そのものが正義に反する、歪められた、間違った歴史であり、自分たちは根本的に間違った世の中に生きているのだし、いまもなお生きているのだという感覚が彼らの深層意識に常に伏在しているのであります。

ウラマーの存在も含め、日本の平安時代と似た様相のイメージが膨らむ。

<183ページより>
シーア派イスラーム神秘主義イスラームスーフィズム)とは、ハキーカ中心主義である点において完全に一致いたしますし、大きな意味では、同じ一つの文化パターンを構成いたしますが、もともと歴史的起源も、思想傾向も、存在感覚も、著しく違ったものでありまして、これを混同することは許されません。

この本の中で、ハキーカには「内的真理」という語があてられています。イスラームの中にあるこの潮流の理解というのが、どうにも複雑なのですが、そこにあるキーは「イマーム」の存在定義。読んでいるとなるほど、と思うのだけど、まだその違いが沁みついてきていません。そのくらい、繊細でダイナミックなうねりのなかにある存在性。

<213ページより>
 人間の現実のあり方、いわゆる現世は、そのままでは堕落であり、悪である。こう感じるところまでは、前回にお話いたしましたスンニー派の人たちと異なるところはない。つまり出発点は同じなのですが、共同体的イスラームの代表者たちとは違って、スーフィーたちはその悪い現世を強いてよくしようとはいたしません。現世を神の意思に従って建設し直す、そんなことは問題外です。
現世はもうはじめから根源的に悪なのであって、神の意思の実現される場所などではありえないのですから。むしろ一刻も早く現世に背を向けて、現世的なもの一切を捨て去らなければならない。それこそ神の意思だ、というのであります。


(中略)


スーフィーの見地からすれば、自我意識、我の意識こそ、神に対する最大の悪であり、罪であるのです。

この理解のうえで、スーフィーの心の修行のありかたが、実におもしろい。ウパニシャッドっぽい。(参考「スーフィーの物語」)

<222ページより>
 西暦九世紀の最大のスーフィーの一人であったバーヤジード・バスターミー(Bayazid Bastami 八七四年没)という人 ── このスーフィーの名前は、ビスターミー Bistami というやや不正確な読み方で西洋に伝わりまして、欧米の学会ではいまでも大抵のひとがビスターミーといっております ── の言葉に、
 「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分の自分という皮を脱ぎ捨てた。
  そして私は、私自身のなかを覗き込んで見た。
   どうだろう、私は彼だったのだ」
とあります。


(中略)


このようなスーフィーの言葉が、共同体的、シャリーアイスラームを代表するウラマーたちの耳に、この上もない神の冒涜と響いたことは申すまでもありません。これがヒンドゥー教などのように「解脱」体験を中心とする宗教ですと、「アナ・ル・ハック」(自己がそのまま絶対者)の自覚はむしろ最高究極の境地の自己表白であって、そこに至ることこそ修行の目標であるわけですが、こういう言葉がイスラーム一神教的コンテクストで吐かれると大変危険なことになるのであります。

イスラーム一神教的コンテクストで吐かれると大変危険」とありますが、シューキョー・アレルギーの社会の中でも、異質視するという差分で言うと、大差ないような気がしています。違うのは、土台。社会平和を宗教が法をもって説く土台がある立ち位置で発生する危険。「怪しい」というレベルではなく、確実にプログラムの動作に影響するような、そういう危険視。


イスラームの学びをきっかけに、宗教と社会について思うことが次々浮かんできます。たぶんわたしがこの学びのなかで見つめているのは、宗教の「土台」。
正月は神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教という不思議ブレンドな日本にいても、イスラームに共感する教えが多いのはなぜだろう。それは、日本の宗教と歴史の流れに少し似ているところがあるからじゃないか。最近、そんなことを思います。