うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

涼しい脳味噌 養老孟司 著

ノイローゼの斬り方が沖先生っぽい。この本の中では、「白隠斬り」が鮮やか。
これは1989年〜1991年に「諸君!」「文學会」「太陽」「東京人」などの雑誌や新聞に載掲載されたコラムを集めたもの。ものすごいお得感です。
羅生門」の読み方の話もおもしろかった。そこは長くなるので割愛するけれど、身体論の文学の歴史に関連する話題が多く登場する、楽しい一冊でした。


なぜおもしろいかというと、前提がしっかりしている。

<「死にかけ体験」より>
 人間という観念を作っているのは、脳なのですよ。その脳に二つ以上の機能部分があるから、その脳を使って「人間」という概念を作ると、人間が心と身体に分離する。そもそもの始めから、人間が心と身体からできているのではない。そんなことは、当たり前のことであろう。

スタンスがハッキリしている。

<「構造とはなにか」より>
(要約略;「構造がある」「構造として見る」という前者後者を客観・主観として分解解釈したあとに)
われわれはこの両方の視点をとることができる。この「視点」のどちらか一方が正しい。そう決めると、モメごとがかならず生じる。それは、経験上うよくわかっている。どちらも成り立つからである。一方だけをとると、一方が満足しても、他方が満足しない。どちらも成り立つよ。そう言うと、それではイヤだと怒る人がある。これは真理は一つという人である。正義の味方と言ってもいい。真理は一つの方が、頭の中はたしかに楽だが、そう決めたところで、現実はさして楽にはならない。

最後の一行、これに尽きる。これがあるから法廷がある。

<「量は質に転化するか」より>
 脳死の判断に間違いが生じる可能性はある。しかし、誤りのない判断が「人間」にできるか。「待てば」それが可能になると言うのは嘘である。人間は誤りを犯す。それは永遠の問題である。永遠の問題を永遠の問題として素直に認めて生きる事を勇気と言う。他方「質」の問題を「量」にすり替えるのを卑怯と言う。戦後の日本人が卑怯になった事は間違いない。おそらくアメリカの物「量」に負けたと思っているからであろう。

「永遠の問題を永遠の問題として素直に認めて生きる」ことについて語る、ここにも現代の親鸞が。最後の示唆は、とことん涼しい脳味噌だ。

<「金とはなにか」より>
 頭の中を信号が飛び回り、変なものが等価交換される。その法則性がわからなくて、お金の動きの法則性がわかるはずがない。その法則性をあっちに置いて、お金の動きに正義や倫理を期待しても、おそらくムダである。頭の中のハエが追えないのに、外に出たものが統御できるはずがない。

脳味噌まで筋肉になると、法則が見えなくなる。ヨガの世界でよく見る光景。

<「ゴキブリ殺しの文化論」より>
ゴキブリが嫌味なのは、ゴキブリのせいではない。それをゴキブリのせいにするところから、「差別」が生じる。ゴキブリがゴキブリであることが許せない。しかし、ゴキブリはゴキブリであるしかないではないか。
 無茶を言うなと言われそうだが、差別とは、元来そういうものである。相手方にない性質を、相手方のもともとの性質として「仮託する」。すべての差別は、そういうものだろう。嫌悪感だと、それがよくわかる。しかし、好意だって、論理的にはまったく同じである。それを贔屓という。その意味では、すべての贔屓は依怙贔屓である。恋愛をみても、それがよくわかる。

相手方のもともとの性質として「仮託する」。「悪者であってくれ」と。そうやって前提を作ることで自分を守り、前提を担ってくれる相手を差別する。どこかで感謝しながら差別しているか、というときに「ゴキブリ」となるととたんにわかりにくくなる。そのわかりにくくなるところが、「法則」。

<「要するに、ノイローゼ」より>
(古本屋で買ってきた『禅林法話集』の話の流れから)
 こんな本を読んで遊んでいるから、勉学が進まない。それでも職業意識が出て、白隠の言う「禅病」が気になってくる。真面目な人が真面目に修行をしていると、禅病に罹る。昔風に言えば、神経衰弱である。

(中略)

 白隠はこの自称「難病」を克服して以来、むやみに元気になってしまう。

(中略)

 少し元気になりすぎてやしないかという気もするが、ノイローゼを治すとここまで自信がつくらしい。自信がなくて起こった病だから、治ったあとは、たいへんな自信である。
「これは、べつに禅の問題ではありません。修行で起こったノイローゼが、修行で治っただけです。それを修行で治った治ったとばかり言うのを、マッチポンプと言います」。
そう白隠に言うと、また病気が悪くなる可能性がある。黙って置くにしくはない。

ぶっちゃけ禅だのクンダリー二だのいうとる人にありがちな面倒はここなんで、なんだかスッキリ。(白隠禅師は画家としては大好きです)

<「身体論は花盛り」より>
 身体論を読むのはどんな人たちか。二、三十年前なら、ただむやみに薬を飲んだはずの人が、薬害に気づいて、こんどは身体論を読み出したのか。身体論の逆は「心」つまり精神論であろうが、こちらは哲学、宗教、神経科学、精神医学、心理学、認知科学、果てはニュー・サイエンスまで、専門分野がたくさんあって、しろうとにはもはや理解が困難になってしまった。それならというので、話が「大霊界」へずれる。その対抗馬が身体論であろうか。

脳を使うのが面倒くさいので、スピリチュアルか身体論へ行っとくか。もうズバリそうですよ。


自分の中で視覚化できた感覚のベースがあって、その自分の考えを自分で訳して廉価版にベストセラー作家になりました、って感じなんだろうな。
どれを読んでもハズレのない人であることは、2冊読めばわかる。

涼しい脳味噌 (文春文庫)
養老 孟司
文藝春秋
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