2003年の本。「都市化」「都会人化」への警告シリーズです。
第5章の「変わる自分、変わらない自分」は必読もの。オウム信者の学生との出会いエピソードもあります。
養老孟司さんの本を手に取るようになったのは、読者さんのかつてのコメントや、ヨガ仲間のすすめから。何冊か読んでみて、なるほどたしかに、身体論なんですね。
養老氏の本にはゴキブリを題材にした投げかけがたまに見られます。先にふたつ、ゴキブリシリーズを引用紹介します。
<22ページ なぜ「子どもは自然」なのか? より>
たとえばホテルの部屋にゴキブリがいたら、お客はまず文句をいうでしょう。あるいはアリが歩いていたって、文句をいうかもしれない。そういうものが出て来るというのは、だれの意図でもない。だれの「つもり」でもないもの、人間の意図から発したものではないものが、ここにあっては、いけないんじゃないか。それが現代人、すなわち都会人の暗黙の考えです。
やっぱりゴキブリって、自分の中で起こるいろいろなことを見るきっかけになります。(参考過去ログ)
<61ページ 相互不信はだれの得にもならない より>
駐日米国大使だったライシャワーさんが、たまたま東大病院に入院したら、病室にゴキブリが出た。それで病棟を新しくする予算がついたという話があります。最近では天皇陛下が入院なさったそうですから、東大医学部も地位が上がったものです。私は東大の地位が最低のときに、働かせてもらってました。居心地が悪くなったから辞めたんですが、それは東大が立派になったからでしょうな。私には家賃が高くなりすぎた。
著者さんは東大に対してわりとこういうスタンスでの言及が多いですが、「家賃が高くなった」という感覚は、なんかわかるなぁ。そこに通って来る人の期待の前提が違ってくると、質も変えなければいけないという嘆きも含まれているような。
次は、オウム真理教の水中クンバカへの立会いを求められた、というエピソード。
<120ページ オウム世代と言葉が通じなくなった より>
(先生のところに、富士宮で麻原彰晃が一時間水の底にいる公開実験の立会いを頼みに来た学生との会話)
なにがどうしたのか、よくわからないけれど、ともあれ当たりさわりのないことを聞いてみました。
「あんたはなにをやってるの」
「ヨガをやっています」
「そうか、それなら少しわかった。ヨガをやって、なにかいいことあったか」
「ありました。食欲がなくなって、性欲がなくなりました。一日二食で済みます」
私が育った時代のように食糧難なら、一日二食で済めば便利でいい。でもいまの若い人が、なんで一日二食がいいのか。そういうわけで、一問一答を覚えているくらいですから、印象が強かった。もちろん、ちょっとおかしいなと思いました。
でもいわゆる精神病の患者さんじゃない。病気の学生はほとんど毎日いますから、それには慣れています。しかし目の前の学生はそれとは違う。質問がなくなって、話が切れかけたら、うちの道場では空中浮遊なんて日常的ですという。それがどんなものか、こちらにはわからない。いまでもわかりません。ともかく修行の結果、身体が宙に浮くらしい。
(中略)
ふつうじゃない、いわゆるおかしな学生なら、私はたくさん知っています。何人も面倒を見てます。しかしオウムの学生は、それとはまったく違う。これまで診たような病気じゃありいません。まとも、かつおかしい学生だったわけです。入院するような病気とは違います。入院するような病気とは違います。
言及のポイントはいろいろな角度であって、「とかいいながら二食、食べるのかぁ」という感覚もありつつ(笑)、ごく日常の会話で「ヨガをやってよかったこと」への回答として、ヨガをしない人にそれを口にする時点で、やっぱりちょっとヘンです。全能感のヒヨコがピヨピヨしてる。
「よく眠れるようになった」「快便になった」「少しのお酒でも酔えるようになり、飲みのコストパフォーマンスが上がった」というくらいでしょう。肌の調子がよくなったとか、女性だとそういうこともあるでしょう。快便の延長でね。
ヨガは、確実にみんなが通る、体液の循環がよくなるタイミングで「全能感」を煽れば、オレ色に染めることができてしまうこともある。そういうあれこれを、インドのヨーガではファキールって言ったりするんですけれども、日本ではそれに該当する言葉が普及していない。「やばい」とか「おかしくなっちゃった」とか、曖昧です。
養老氏の「まとも、かつおかしい」というのは、なるほどな、と思いました。身近な感覚では、「気持ちいいから、流行るのは、わかった。さて、自分の場合は、どこが?」と自問自答することがヨガの醍醐味ではないかと思っています。「スーパーサイヤ人のような全能感が気持ちいい」ということであれば、それはもう誰にもとめられない。とめられないんですよ。
<131ページ 「昨日の私」は情報でしかない より>
自分が情報になり、変わらなくなったから、死ぬのは変だということになりました。同じ私、変わらない私があるなら、死ぬのはたしかに変です。だって死ぬとは、自分が変わるということじゃないですか。だから現代人は死ぬことが理解できなくなったのです。
ここは、次の引用と連動します。
<133ページ なぜ意識は「同じ私」というのか より>
昨日寝る前の私と、今朝目が覚めたときの私、それが「同じ私」だという保証はありません。寝ている間に、卒中を起こして死んじゃう人だっているでしょう。目が覚めたときは、死んでいるわけじゃないですか。
目が覚めるたびに「同じ私」だと確認します。それを毎日繰り返すから、「同じ私」があるに違いないということになります。でも長年生きていると、どうなりますか。いつのまにか、私みたいに白髪になってきます。たしか以前は若かったのに、もう体力がない、よれよれになってきます。そのときでも、私は同じ私だと、言い張るのが意識なんです。
アンチエイジングって、こわい言葉だよなぁと思う。シンクロエイジングで行こう。
<141ページ いまの自分こそ間違いのない自分 より>
なにが大切かということは、自分がどう生きるかを抜きにしては考えられないのです。しかしそれは、自分が変わってしまえば、ガラッと変わってしまうんです。だから人生の何割かは、いつだって空白で保留しなきゃいけません。それを私は無意識といったんです。
人生にははじめから空白があって、そこは読めないんです。現代人はもっぱら「ああすれば、こうなる」ですから、空白を認めません。考えてないんです。
「人生の何割かは、いつだって空白」。こういうところを読み逃さないようにね。
<147ページ 心に個性があると思い込むムダ より>
考えていることは、人それぞれみな別々のものだ。そう思うのは、それが他人に見えないからというだけです。ためしに他人にいってみると、「またアホなこと考えて」といわれたり、「そうだよ、おまえのいう通りだ」といわれるかもしれません。どちらにしても、相手はわかってる。つまり共通になっちゃう。
他人にわかってもらえない考えを自分が持っていても、とりあえず意味ないでしょ。他人に関係ないから、それは黙ってて済むんです。それを個性だと思うなら、勝手にそう思えばいいけど、社会的にいえば、そんなものはあってもなくても同じです。だって、定義により、他人に関係ないんですから。
どうしてそんな当たり前の常識が通らないんだろう。私は逆にそう思います。心に個性があるなんて思ってるから、若い人が大変な労力を使うわけです。自分が人とは違う、個性がある、そういうことを証明しようとする。ムダなことですな。だいたい人と違ってたら、本なんて売れないでしょ。みんなにわかるから売れる。
この日記は、なんだかずるずる書いているうちに、「アホなことを考えているおまえのいう通りだ」という感じになっていったのだけど(リピーター読者のみなさん、いつもありがとう)、そいういうことなんですよね。
<192ページ 「都市こそ進歩」という思想を変える ── 脳化社会の歯止め 全文>
実行が社会を変える。それがふつうの考えです。だからグズグズいってないで、サッサと実行しろ、とこうなる。でもその挙句の果てが、テロだ、戦争だ、という騒ぎじゃないですか。
だから私はじつはそう思ってないんです。なぜなら社会は脳が作っているからです。脳は「考える」器官です。だから社会を根本で変えるのは、「考え」なんです。大げさにいうと、社会を変えるのは思想なんです。その基礎を用意するのが教育です。だから教育論なんですよ。
私は戦前生まれ、戦後育ちです。戦前から戦後の変化、それは思想の変化です。その変化がいかに巨大だったか、それは多くの人が知っているはずです。ところがそこでも変化をしなかった思想は、都市化こそが進歩だという思想なんですよ。それを変えましょう。そのことを長々と述べてきたんですよ、じつは。
都市でなければ、田舎だ。それが一元論です。戦争か、平和か。またそれですな。心か身体か。精神一到なにごとかならざらん。なにごとも心がけ、というわけです。こういうことは、みんなやめましょう。そういうことです。
ヨガは意外と「いいからやれ。実践!」というところがあって、ある意味自分に対するテロのような「陶酔の道」の側面があったりする。「やらなきゃいけないんだっけ?」という気持ちがあっていいし、ほかのことをしてみながら「およよ、これもなんだかヨガっぽい。今日はアーサナも瞑想も呼吸法もしなかったけど」という感じでいいと思うんです。毎日やるか、やらないか。継続か否か、もまた一元論的ですね。
なんというかな、養老先生のメッセージは、タオっぽい。虫が好きな男の子に、悪い子はいない気がします。