うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

修業論 内田樹 著


ラクティカルなことを言語化するのはすごくむずかしい。でもしてる。すごい。
修業には書き方が二つあって、修業(カルマのほう)と修行(doのほう)があります。武道だと do のほうをとる記述も多く目にしますが、この本ではカルマのほうで統一されています。
この本を読んでいたら、ヨーガの武道と似ているところ、そうでないところが見えてきました。それは端的にいうと、「生きる技術としての修業」と「輪廻から抜けるための修行」の違い。武術とヨーガは「プラクティカルであること」までは一緒なのだけど、それが己の敵を己の中に認めることに加えて、「お願いなので、肉体を持って生きるのは今生(こんじょう)で最後にしていただけませんかね」と神に祈りながら浄化(do)する。生きることをある意味認めていないところがある。そういう微妙な違いを思いながら読むのがおもしろかったです。

11世紀以降のインドのハタ・ヨーガと日本の武道を並べてみると、澤庵宗彭の説いた「剣禅一味」のほうが格段に霊的修業度が濃いのですが、この本には「不動智神妙録」の引用がたくさん出てきます。
なかでも

「入力と出力とタイムラグ」、「主体と他者の二項関係」それ自体を、沢庵は住地煩悩とみなす。

という現代語訳に悶絶。そう、沢庵和尚はサーンキヤ・ヨーガなんです。この本では、わたしがタクァンジャリと言いたくなる要点をばちっと語ってくれていて、たまらん内容でした。



もうひとつ、

「鍛える」というのはハードディスクの容量を増やすことであり、「潜在的な能力を開花させる」というのはOSをヴァージョンアップすることである。

という説明も、たまらん〜。ヨーガではこれに加えてviveka(識別)の能力が開花するというのが「いいCPU積んでる」という感覚に近いです。




ここまでで「めんどくさそ」と思ったら、今日はめんどくさいほど熱血な感想になるのでスルーしてください。ここまでで「やばそ」と思った人は、ノリノリで読みすすめてください。


処罰も報奨もなし。批評も査定も格付けもなし。それが修業です。

やんわりと体罰の意味のなさを説明する流れから、こうくる。すばらしい。



身体技法の場合には、修業で習得されたことは、ほとんどの場合「自分の身体にこんな部位があることを知らなかった部位を感知し、制御できるようになった」というかたちで経験されます。

(中略)

修業がもたらす成果を、修業開始に先だってあらかじめ開示することは不可能なのです。

わたしがよく「ベスト・キッド的な」と言っているアレのことです。



個人的な身体能力をどこまで高めても、どれほど筋骨を強くし、運動を迅速にしても、あるいはあらゆる反命を許容しないほどに無慈悲になっても、「多数の人間たちがそれぞれの主体的意思に基づいてふるまいながら、それがあたかも一個の身体の各部のように統一された動きをする集団」に敵し得る集団を作ることはできない。

これを国家としてやろうとしたのがガンジー。すごいヨギだよまったく(参考:ガンジーの危険な平和憲法案)。



加齢や老化を「敵」ととらえて、全力を尽くして健康増進とアンチ・エイジングに励んでいる武道家がいるとしたら、彼は生きていること自体を敵に回していることになる。

ちょっとチンターマニ先生とゲーランダ先生、きいたー? ここだいじよー。合気道の人がいいことおっしゃってるわよー。




この本は「因果関係の中に身を置かない」という章が特にすばらしい。

「敵を作らない」とは、自分がどのような状況にあろうとも、それを「敵による否定的な干渉の結果」としてはとらえないということである。自分の現状を因果の語法では語らないということである。


(中略)


「自分には無限の選択肢があったのだが、攻撃入力があったせいで、選択肢が限定された」というふうに考えてはならない。それは「敵を作る」理論である。そういう理論を採択しない。
 そうではなくて、「無限の選択肢」などというものは、はじめからなかったと考える。とりあえず今、私が選択することを許されている限定された動線と、許された可動域こそが現実のすべてであると考える。それが「敵を作らない」ということである。

この章のまとめかたがとにかくすばらしいので、気になる人はまるごと一冊読みましょう。足るを知らないから敵が在る。




禅とサーンキヤの共通点を語ってくれているところもありました。「啐啄之機(そったくのき)」ということばの説明で

その言葉を聴き取ることのできる主体は、その言葉の到来によって賦活され、この世に誕生する。命令の到来以前にはまだ存在しておらず、命令を果たそうと身を起こしたときにはすでに存在している。

顕現と未顕現 vyakta と avyakta のこと。禅とヨーガの共通点の間に、やはりこのプルシャ(主体)とプラクリティ(その言葉)の、サーンキヤ二元論がある。




「自分の身体を支配する」という全能感へのアディクト という章もまたすごい。

ダイエットでも、自傷行為でも、ギャンブル依存でもアルコール依存でもそれは変わらない。問題は「私は自分の身体を制御している」という全能感のもたらす愉悦なのである。

アラームが効くぜ! という全能感から「飲んでも飲まれるな」というファジーな段階を経て中毒に至る。その問題がスタート地点の全能感にあることを説いてくれている貴重な解説。




「額縁」に救われ、「額縁」に縛られる の章も、とても大切なことを語っている内容でした。

「気が狂う」ことを回避している代償を、私たちは別のかたちで支払ってもいる。

森博嗣さんが同じことを語るとちょっとおしゃれな感じがするのに、内田樹さんが書くと汗臭くヨーガっぽい感じになるのはなぜだろう。親近感沸くなぁもう(笑)。
ヨーガではこれを abhinivesha (つながりから離れることへの恐怖)というのだけど、事例が「肉体と魂が離れること=死の恐怖」とされることが多く、そのせいで深い話題に入っていけないことがほとんど。ヨーガも仏教も、「正常と言われている額縁から離れて見ること」に有効な技術として瞑想がある。




以下は、全体の中では目立たないけど、とても貴重なコメントと思いました。

修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
 どうとでもとれる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。

「どうとでもとれる玉虫色の解釈」への指摘。「なんとなくシャンティ」って言っているだけの状態はリアライゼーションの対極にあり、プラクティカルではないから身に付くと思えないのです。「あのときの、あのシャンティ」「どこかで感じたことのある、いま、このシャンティ」を見つめないと。ここは、あえて捉えにいくところです。これと執着の区別がつかないと、「瞑想ってよくわからない」ということになると思う。というのをわたしも断定的に書いてみた。



生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。それ以外にない。自我も主体も実存も主観もテオリアも超越的主観も、生命活動の中心の座を占めることはできない。

パタンジャリがヨーガ・スートラの2章9節で語っていること。これを「生命の記憶」と扱っているのがいかにもインド的なのですが、「賢人であっても(いくら修業を積んでも)、これはある」といっている。どれだけ修業を積んでも手の届かない「アレの存在(tat sat)を感じることができるか」という道筋に、八肢の手順を織り込んでくれているのがヨーガ。武道とヨーガの共通点はこのサンドイッチ構造にあるのだろうな。




このあと、この本では、人間はなぜ戦争をするのか、正義とは、慈愛とは、宗教とは、儀式とは、清浄とは、成熟とは、などなどとことん語られます。いずれにせよ

正義と慈愛は本質的に食い合わせが悪い

と言い切っているところが重要。大乗的です。




最後は司馬遼太郎がなぜ坂本龍馬が修業で得たもののプロセスを描いていないのか、ということが語られるのですが、そこに【「理」へのこだわりが生んだ、稽古法への懐疑】という章があります。
この「理」はある意味「夢」でもある。司馬遼太郎坂本龍馬を天才として描くところで修業の要素をカットしたけど、めっちゃ修業してないとあのバランス感覚はありえないから。としたうえで、なぜそうなるに至ったかというところを推測されています。ここはわたしにはちょっと重いオチでもあったのですが、なるほどそんな見かたがあったのか、と思いました。ほんとにそうかなとも思ったけど、こういうふうに「仮説を立てて考えること」自体がまさに修業の段階のリアライゼーション。これが正しいかどうかよりも、それをいま断定的に語ることに意味がある。というのがこの本の主題です。




この本はライフハックネタを好む人には「何を言っているのかわからん、散漫だ」と感じるかもしれませんが、同じことを手を替え品を替え語ってくれるので、わたしにとってはたまらん一冊でした。
ちなみにこの本で知ったのですが、内田樹さんのパラムグル(師の師)にあたる名に中村天風さんが登場する。やっぱなー。合気道でもうのちヨギと同じトーンなるわけだよなー。と思いました。
この本のなかの瞑想の説明は、そのままサーンキヤ・ヨーガの教科書にできそうなほどすばらしい内容。とてもお得な内容だと思うのだけど、みんなにお得かはわからない。そういう本でした。


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内田樹さんの本の感想はこちらの本棚にまとめてあります。