うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

マーンドゥーキァ・ウパニシャッド(紹介12:佐保田鶴治 訳「ウパニシャッド」から)

この本に収められているウパニシャッドのなかでは最後のものになりますが、内容がそんなに多くなかったので全て紹介します。このウパニシャッドでは「夢」の状態について語られています。
ウパニシャッドは前期のものは「本文紹介」→「感じたコメント」といういつもの流れでよかったのだけど、後半になるほど感じたことを伝えずらいものになってきた。9月からこのウパニシャッドについて半年間書いていく過程で、これは興味深い発見でした。


今日紹介する「マーンドゥーキァ・ウパニシャッド」では、意識の状態と自我の特性、分解された聖音(オーム)について、興味深い対応式が登場します。

 「覚醒状態」「夢寐状態(むび)」「熟眠状態」
 「意識的自我」「光明的自我」「叡智的自我」
 「ア音」「ウ音」「ム音」


よくここでも書いているとおりなのですが、うちこは周りの人の話を聞く限りでは、「夢を見ない」ほうだと思います。今月、夢なんてみたっけ? と思う月のほうが多い。ただ、見るときはものすごく感覚的にリアルなんです。(参考日記:ものすごくリアルな質感の夢のこと
目線は当事者ではなく主人公は別の人で、その人をストーリー展開の主軸にしてまるで自分はカメラマンのように追っていることが多い。子どもの頃は、自分が主人公で「わぁ。どうしよう」なんて思う夢のほうが多かった。
このウパニシャッドでは夢を見る意識の状態「夢寐状態」には「光明的自我」というのが紐付けられています。これを知る者は「中庸を得た人間」と定義されています。
きっとこの「夢寐状態」も分解していくと、当事者目線の場合、監督的目線の場合、ほかにもうちこが感じない目線があるかもしれない。中庸ってのはただの「ド真ん中ひとつ」ではなくて、揺れ続けるバランスだと思うので、このこたえが一つじゃないって事が、正しいことなのかも、と考えたらものすごく面白くなってきた。当時のインド人にきかないとわからないのが残念です。


そして、「ほぼ、のび太」といわれるうちこの「熟眠状態」は「叡智的自我」ってことにしていただけているのがちょっと嬉しい(笑)。しかも「これを知る者は、なんでもできちゃう」みたいな定義になっています。毎日死んだように寝る能天気は最強か?


ではでは、紹介とともにコメントします。

■�却
「�却」というこの音は万有である。これについて詳説しよう。過去、現在、未来といわれる一切は�却音である。他に三世を超出したものがあるが、これもまた�却音である。

「オーム」の音です。このあと「ア→ウ→ム」に分解していく展開になります。
が、次はひとまず夢の状態の話になります。

■自我の四足
万有は梵である。この自我(アートマン)もまた梵である。この自我に四つの足(部分)がある。


覚醒状態にあって、外界知を有し、七支を具し、十九の口を以て粗物を享受する一切人的自我(意識的自我)はその第一足である。


夢寐(むび)状態にあって、内面知を有し、七支を具し、十九の口を以て細物を享受する光明的自我はその第二足である。


眠りに落ちて、何等の欲望を懐かず、何等の夢を見ざる状態は熟眠である。熟眠状態において渾然一体となり、純知の一塊となり、歓喜所成にして、意識を口として歓喜を享受する叡智的自我はその第三足である。


しかるに、ここに一切の主神、全知者、内導者、万有の胎宮、万有の生・滅である処の足(部分)がある。


この内面知なく、外界知なく、内外両知なく、知塊なく、知なく、無知なく、不可視、不可侵、不可捉、無相、不可思、不可説にして、唯一自我の信念を本質とし、万象を消融し、寂静、安詳にして不二なるものを賢者達は第四位として尊んでいる。これこそ自我であり、人のまさに証得すべきものである。

一、二、三ときて、まとめが四位という流れですが、この点について佐保田先生は「インド人の思考様式として足(pada)は四本ないと完全ではないから、自我に第四足がかけていると論理に合わないと考えた結果と見ることもできる」と解説に書いています。こういうインド人特有の「きもちわるい」の感覚解説が、読んでいて面白い。
四位のまとめはまったく単独の文章でも成り立つので、やはり注目したいのは睡眠の状態と自我の分類です。


次に、聖音との関連について語られている内容を紹介します。

■自我の四足と�却の音
この自我は音綴として見れば、聖音「�却」(オーム)である。母音として見れば、その足(部分)をなすものが母音である。母音としての足はア音とウ音とム音とである。


覚醒状態にある一切人的自我は�却音の最初の母音たるア音である。一切人的自我には取得もしくは首位保持の義があるからである。かように知る者は実に一切の願望を取得し、また首位に立つに至るのである。


夢寐状態にある光明的自我は�却音の第二の字母たるウ音である。光明的自我には引き上げるの義もしくは両辺に通ずるの義があるからである。かように知る者は実に真知の相続を向上させ、また中庸を得た人間になり、兼ねてその家門には梵学者でない者は生まれないのである。


熟眠状態にある叡智的自我は�却音の第三の音母たるム音である。叡智的自我には建立の義もしくは合会の義があるからである。かように知る者は実に一切を建立し、また一切を合会する者となる。


第四の自我は音母なく、不可侵にして、万象を消融し、安詳である。かようなわけで聖音「�却」は自我にほかならない。かように知る者は自我によって自我に入る。

この対照のさせ方、インドっぽいわぁ、と思う。まるでチャクラ対応表みたい。
そして、空海さんの真言宗の教えを想起させる内容でもある。「自我によって自我に入る」というのは当時のインドの神秘思想家に好まれ、よく使われた標語だと解説にあったのですが、これは空海さんの「入我我入(にゅうががにゅう)」そのものですよね。
知らず知らずのうちに、空海さんを通じてインドの神秘思想を学んでいたのか。


「夢を見ず、熟眠でもなく寝ている」という揺れる時間はかなりあるのだろうけど、同じ中間睡眠の中でも「意識がある状態寄り」の眠りは感覚を鈍らせてしまうと感じる。
うたた寝そのものは気持ちがいいけれど、その後めちゃくちゃだるい。うちこはそのだるさが苦手です。揺れるバスの中で寝るともうほんっとに気持ちいいのだけど、降りる停留所と意識のタイミングが合わないときは、かなり残念な重さ。胃もたれみたいに頭がもたれる。
会議中に寝てしまう管理職の人を見ていると、タマスオンリーでビジネス戦力外。居場所つくってあげなきゃ、と思う。肉体だけ置いておかれても困る。そして夜はそのまま居酒屋へその肉体を移して、ラジャスを起動する。最悪のスパイラルに陥る。


「全裸で電車に乗っていた」という夢を見たまりちゃんの話とか、「こだわりのコーヒー屋でモーニングを頼んだら2600円だった」という夢を見たかおりさんの話とか(その微妙な価格設定がおもしろすぎ)、最近友達から強烈な夢の話をもらったばかりだったので、あらためてこのウパニシャッドを楽しむことができました。

ウパニシャッド
ウパニシャッド
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佐保田 鶴治
平河出版社
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4 主要13ウパニシャッドの虫食い的抄訳
5 ヨガを日本に広めた先生が書いた本。