昨日「マーンドゥーキァ・ウパニシャッド」の感想を書きましたが、その注釈にあった「夢位」の三者の解釈が興味深かったので抜き出して考察します。
このウパニシャッドのなかで、覚醒位、夢位、熟眠位の「夢位」は「光明的自我」が紐付けられています。そしてこの状態についてシャンカラ師、ラーヤーナ師、佐保田鶴治師それぞれの解釈が巻末の注釈に載っていて、これが面白い。
第二足の光明的自我に「引き上げる、向上させる(ut-karsa)の意味があるということについては一定した解釈はない。シァンカラ師は「夢位は覚醒位よりも勝れている」からという。ナーラーヤナ註によれば、「覚醒位における肉的執着を捨てさせて、熟眠位において個人我(jiva)を肉体から引き抜く」からだという。
「両辺に通ずる」(ubhayatva)についても註釈家の意見は明確ではない。シァンカラ師はこの字を「中間」の意味に解し、夢位が覚醒位と熟眠位の中間にあるからだという。ナーラーヤナ師は、外的知覚から成る随眠(迷妄)と習気(じっけ/過去世から積み重ねてきた気分の記憶)所成の対堺に対する知識の両者を逐放することをいうのだと糊明している。私案をいえば、『ブリハット』四・二・九に夢位を説明して、地上界と至上界の中間位(sandhyam)であるとし、この状態においては両界を同時に見ると説いているのと思想的関連がある。本節の後の方で samana(中庸を得た、平等な、equal)という語を ubhayatva に関連させている。つまり、両極端を等分に見渡す人のことである。
あえてシンプルに書き直してみると
シャンカラ: 夢位>覚醒位
ラーヤーナ: 覚醒位(肉体執着) ⇒ 中間に夢位 ⇒ 熟眠位(個人我が肉体から抜ける)
佐保田: 覚醒位 ← 中庸 → 熟眠位
ということなのですが、なかでも興味深かったのはシャンカラ師の「両辺に通ずる」の意味が
外的知覚から成る随眠(迷妄)と習気(じっけ/過去世から積み重ねてきた気分の記憶)所成の対堺に対する知識の両者を逐放する
というところ。
どっちかに所属したら逐放する行為から離れてしまうような、そんなニュアンス。
サドヴィック(純性)
この要素が頭に浮かぶ。
覚醒位がラジャシック、熟眠位がタマシック。
夢の話というのは、あくまで「覚えていた」「記憶していた」ベースで話されるけれど、ここで言っているのは記憶に関係なく、睡眠の中で「夢を見る状態」のこと。
よく夢占いで「潜在意識」が引き合いに出されるけれど、それはもしかしたら「ものすごく純粋な期待や不安」なのではないかと思う。
そういう意味での潜在意識ならば、「教えてくれて、ありがとう」だ。
ただ夢のストーリーの形成には「本人のイマジネーション」というフィルタがかかる。
イマジネーションは豊かである方がよいのか、逆に貧しいほうがまっすぐでより純粋といえるのか。
一生に一度も旅をせずに、生まれた土地で死んでいく人が世の中にはたくさんいるけれど、多くの世界を見ていなくても、ストーリーを生み出すイマジネーションはかわらなくて、映像のリアリティに差が出るだけなのではないかと思う。
むしろ「ストーリーのバリエーション」を知らないほうが、より自身の習気(じっけ/過去世から積み重ねてきた気分の記憶)に範囲が限られて、潜在意識に近づくことができるだろう。恐怖の種類には、そんなにバリエーションはないと思うから。究極「死ぬこと」に結びつく。
逆に「期待」においては気分の記憶に、これまでに見てきた世界や比較対象のバリエーションが大きく影響するだろう。
「人を羨む行為」はまったくもって、ノイズでしかない。
本来自分が望んでいるものが見えなくなってしまうから。
芸術家の才能や世にいう「センス」は、このストーリーそのもののイマジネーションに帰依するものかもしれない。
芸術の配色は、その土地の花や自然の色彩の影響を受ける。
潜在意識を語るうえではむしろ「ストーリー」が肝のように思えてきた。