「第一編 タントラヨーガの行法」「第二編/ナディ」に続いて、この本については今日で最終回。第二編のなかから「チャクラ」に関する記述部分をいくつかご紹介します。
7つあるチャクラの中でも興味深い記述のあったのが「スワディスタナチャクラ(丹田な)」と「アナハタチャクラ」でした。この本に出てくる「サッチァナンダ」というのはサッチァナンダさん(本山氏に指導をされたかた)です。
<219ページ Psi能力、チャクラ、経絡の密接な関係 より>
サッチァナンダによると、七つのチャクラのうち、下から、ムーラダーラチャクラ、スワディスタナチャクラ(上の二つのチャクラは泌尿生殖器系にプラナを与え、これをコントロールするといわれています)、マニプラチャクラ(消化器系をコントロールするといわれます)の三つのチャクラは、それらが目覚めて、より次元の高い活動を、微細身のエネルギー体で始めると、次のような超能力(Psi能力)ガ目覚めてくるといわれます。
ムーラダーラチャクラの目覚めは、ムーラダーラに内在するクンダリニー(生命力の根源)についての完全な知識と、それを目覚ます力が得られ、身体の浮揚現象、呼吸、心の働き、精液のコントロール、においを産出するなど、さまざまな能力が得られます。
スワディスタナチャクラの目覚めは、水に対する恐怖心がなくなり、直観知が得られ、微細身、エネルギー体の組織、ナディ、経絡についての知識が得られ、味覚の力がより微細になります。
マニプラチャクラを目覚ますことによって、隠れた宝物を見出す能力が生じ、火に対する恐怖心が消え、自分の身体の状態を知ることができ、マニプラのプラナによって病気を治し、身体を健康、無病にすることができます。またサハスララチャクラ(頭頂にある)からエネルギーを吸引することもできるようになります。
<上記のつづき>
ところで、この三つのチャクラに共通な原理は、与えられたもの、定められたものを保持することです。つまり、積極的に自分以外の外の世界の人や物に何かを生じさせることがなく、与えるということが少ないのです。
これに対して、マニプラチャクラの上位にあるアナハタチャクラが目覚めると、自分の望むものが外の世界で実現されるに至るといわれます。つまり、アナハタチャクラの原理は、愛の原理、生命力、エネルギーを他に与え、そこに望むものを生じさせるというのです。
マニプラまでのチャクラは、原則的に与えられるものを受理する働きをします。Psi能力のうち、ESPは外から与えられるものを知る能力ですが、私たちの体験によると、宗教的修行や、生まれつきによってESP能力を主として持っている人たちは、テレパシー、霊視、クレアボイアンス、サイコメトリーなど、自分以外の人や物から与えられる情報を受理する能力にすぐれています。ところが、外のものや、人の心に働きかけて、そこに何かを生じさせる能力が弱いということができます。
下半身のチャクラの共通事項をまとめて解説してくださっています。
<179ページ マニプラが目覚めて生じる超能力 より>
このチャクラはなぜ「宝石の町」と呼ばれるのでしょうか。
このチャクラに達して目覚める高い意識は、スワディスタナまでのもののように、個人的、感情的偏りや暗さを含まず、明るく真・善・美にみちて、高貴な性格を持っています。壮大で、あわれみ深くもあります。このような、このチャクラのもつ明るさ、高貴さを象徴する意味で、光輝く高貴な「宝石の町」と呼ばれるのでしょう。
■スワディスタナチャクラ 171ページ〜
(1)スワディスタナチャクラの意味と位置 より抜粋
このチャクラについてのサッチアナンダの説明で、たいへん興味をひくのは、スワディスタナチャクラを、無意識のチャクラ、無意識的カルマのチャクラとしていることです。
(2)スワディスタナチャクラは無意識のチャクラ(全文)
脳の中とサハスララチャクラの中にあって、スワディスタナチャクラと連結しているセンターが、あらゆる相の無意識をコントロールするセンターであり、スワディスタナチャクラは、あらゆる相の無意識を包含する、無意識のチャクラで、集合的無意識のチャクラともいわれます。
この集合的無意識は、人間の存在にとって有力な基盤であり、強い勢力を持っており、人間意識よりも強力で、また活動的なのです。そしてクンダリニーが目覚めてスワディスタナチャクラに至ると、この無意識は、絶えず個人に影響を与えるようになります。
人間の行動の大部分は、この無意識によって支配されているにもかかわらず、人間の意識は、ほとんどそれを知らないのです。
毎日の生活の中での意識的・無意識的な行為、有意義な、また無意味な行為や経験のすべてが、自動的にスワディスタナの無意識のセンターの中に記録されます。
この無意識の内容を分析したり、充分に理解することは、意識にとっては到底不可能なことです。まして、ふつうの人には、ほとんど知ることができない前生のカルマや、さらに人間になるまでの進化のプロセスでのすべての経験やカルマが、スワディスタナの無意識のうちに貯えられているのですから、これらを分析することは人間の意識にはとてもできないことなのです。
このように、スワディスタナは無意識のチャクラであるといわれます。この無意識のスワディスタナの中に、カルマはどのような形で保たれているのでしょうか。
クンダリニーが目覚めても、ここにひとつ天井があるんですね。
(3)スワディスタナとカルマ(全文)
カルマのあるものは、種子のかたちで含まれ、種子そのもののように眠っているような無活動の状態をとっています。また、他のカルマは活動的です。けれども、非活動であれ、活動的であれ、どのカルマについても、私たちは意識の次元では、それをほとんど知らないに等しいのです。
実は、ここが重要なのです。というのは、クンダリニーが目覚めて上昇をはじめ、人間の霊的進化が始まろうとすると、このスワディスタナの中に眠っているカルマ、活動しているカルマが、上昇しようとするクンダリニーの前面にあらわれます。
けれども、これらのカルマを、人間意識は分析することができず、コントロールすることができないわけですから、スワディスタナをコントロールして、クンダリニーを通過させることができません。そのため、目覚めたクンダリニーは、また元のムーラダーラに帰ってしまいます。
ここに、スワディスタナチャクラと、それが含むカルマの働きが、人間の進化にとって、どんなに妨害となるかがわかります。
けれども、まずアジナチャクラを目覚ますことから始めると、スワディスタナも超意識の下に自覚され、その妨害も未然に防げると、サッチァナンダは考えているようです。
ちょっと脇にそれますが、重要な問題として、人間の進化に関するサッチァナンダの考えを、簡単に説明することにしましょう。
眉間の「第三の目」といわれるところ。
(4)人間の進化についてのサッチァナンダの教え(全文)
彼の考えによると、プラクリティ(原物質)からプルシャ(真我)の観照によって、万物が創造されあらわれてくる進化の過程が進んで、動物の次元に至ると、この動物的進化の各段階は、ムーラダーラより下位の七つのチャクラをしだいに上昇し、進化することによって遂行されるというのです。
その頂点でムーラダーラに至りますが、このチャクラは動物領域の最高のチャクラ、人間領域の最低のチャクラだということは前に説明しました。したがって、ムーラダーラより上の六つのチャクラは、人間の進化の過程の六つの道程または段階なのです。
チベットのタントラヨーガでは、サハスララチャクラは人間の進化の最高の段階であるが、神霊の世界では最低の段階であるとして、人間以上の世界の進化の道程を示すチャクラを、さらに七つあげています。
このような無(創造前の世界)から創造と、現象の世界、さらに神霊の世界への、無限の進化の過程を、タントラヨーガ(密教的ヨーガ)は、チャクラを道標として示しています。チャクラは重要な役割を進化の過程で果たすのです。
このように、万物とその霊的本質の進化を信じ、その進化の過程で、各チャクラが重要な役割を果たすことを認める思想が、インド、チベット、ネパールのヨーガや密教的な仏教の底を流れているように思われます。
サッチァナンダは、このような進化論の思想をふまえて、動物界の最高チャクラとしてのムーラダーラチャクラのうちには、人間以前の動物の段階で得た、数知れない経験のうち多くのものが蓄積され、カルマとして、または能力として残っているといっています。
たとえば、私たちが活躍したり、眠ったり、食べたり、感じたりするのは、動物的進化の過程によって得たもので、それがいぜんとして人間の中で働いており、それはムーラダーラチャクラの働きに属すると考えるのです。
つまり、ムーラダーラチャクラでは、動物的カルマがいまだに働いているわけですが、これに対して、スワディスタナは、無意識のチャクラではあっても、このムーラダーラチャクラ支配できる位置にあるといわれます。チャクラが一つ進化するごとに、その上位のチャクラは、下位のチャクラに対して優勢な支配力をもつというのが、サッチァナンダの考え方です。
「動物的進化の過程によって得たもの」という説明を興味深く読みました。
ここからは「アナハタチャクラ(胸の位置)」についての記述の章をいくつかに分けて紹介します。
■アナハタチャクラ 180ページ〜 心臓
(4)アナハタチャクラの意味と位置 後半より抜粋
アナハタの意味は「止まることがない」ということで、アナハタチャクラには、非物理的、超越的次元の、止まることなく絶えることのない、初めも終わりもない音、アナハタナーダ(アナハタの聖音)と呼ばれる音が聞こえるといわれます。
次に、アナハタチャクラの特質について、サッチァナンダの説を紹介しましょう。まず、カルマ(因縁)とアナハタチャクラの関係からです。
(2)アナハタチャクラとカルマ、願望成就 より抜粋
働きは、働くものがあるから行なわれます。その働くものが個人である場合と、社会や国家である場合の二通りがあります。
(中略)
そのうちの、個人に由来するカルマを、サッチァナンダは個人の前生からの業(カルマ)と、両親や先祖からの業の二つに分けます。このように全体としてのカルマは、【1】個人の前生からのもの、【2】両親、先祖からのもの、【3】社会からのものの三つに区分されます。
そして、どのカルマも、必ずつぐなわれるべきもので、それから逃れることはできません。
ところで、ムーラダーラからマニプラまでの三つのチャクラは、肉体の維持、肉体と結びついていく感覚、心(意識)と、たえずかかわりを持っています。つまり、この世的、経験的な働きにかかわりを持っているわけで、そのため、働きとその結果の関係、つまりカルマから逃れがたいのです。
(中略)
この三つのチャクラにくらべると、アナハタチャクラは、経験的、この世的次元の存在性を越えています。アナハタチャクラの働きは、この世的次元のものに属さないといってもよいでしょう。
(中略)
アナハタの働きは、この世的なカルマの次元をこえているがゆえに、アナハタを目覚ました個我は、カルマから自由であり、同時に、この世的なカルマの世界をコントロールし、自らの意志によって、カルマの世界でその願いを成就することができます。ここに、マニプラまでのチャクラの働きと、アナハタの働きとの大きな違いが生じます。
(中略)
ところで、アナハタを目覚めさせた人は、この世で自分の願望を成就できるわけですが、その願望が善いものであっても悪いものであっても、等しく成就できてしまいます。そこで、アナハタを目覚ました人、これから目覚ます人が守らなければならない注意が重要になってくるわけです。
「あきらめの境地」を「おまかせの境地」にできるか否か。そういう微妙なところにつながる解説。そしてその「あきらめ=おまかせ」をどう昇華させる活動に至るか。ヨーガは、そういうことを教えてくれる。
(3)アナハタ覚醒に関する注意と警告 より抜粋
アナハタを目覚ます人は、正しい思考、決定のできる人でなければなりません。
(中略)
さらに、サッチァナンダの説くところによると、アナハタの目覚めを志す人、少し目覚めた人は、希望に満ちた楽天家であるべきで、悲観主義者であってはなりません。その身体、心、霊の雰囲気において、自分はもちろんのこと、まわりの人々とも平和でなければならず、たとえ世の中が矛盾や抗争や悪意にみちていようとも、ヨギは平和とやすらぎをいつも心に感じられなければならないのです。
(中略)
このような、楽天的で、一切を善とみなす態度こそ、アナハタを目覚ます行法の一つであり、正しい思考と決定を下すことができるのです。また、どんな状況にあっても、常に心に平和とやすらぎを見出せる人は、アナハタを目覚ます資格のある人なのです。
(中略)
サッチァナンダは次に、アナハタを目覚まそうとするヨーガの弟子たちに、次のような警告を与えています。
クンダリニーヨーガの行法に従って各チャクラを目覚ます行法を行なっていると、クンダリニーのエネルギー、シャクティが目覚めて上昇します。そのとき、弟子または行者が、人生に対して消極的な、または暗い考えをとっていると、このシャクティはムーラダーラに還ってしまいます。このとき、もしシャクティの上昇がマニプラチャクラまでだと、目覚めたシャクティがムーラダーラに還っても、再びヨーガ行その他によって上昇させることができます。ところが、シャクティがアナハタチャクラまで上昇し、暗い否定的な人生観や態度のために、ムーラダーラまで下がってしまうと、再び上昇させることは大変に困難だといっています。
あえて順序を置き換えると、「常に心に平和とやすらぎを見出す方法を "他人に期待する人" は、アナハタを目覚ます資格がない。というか、目覚めないです」ということのように思います。ヨーガをしていても、どうにも暗さが浮き出てしまう。
インストラクターをしている人が「教えることによって勉強させてもらった」という発言をすることがよくあるけれど、ヨーガを教わる側が「暗さ」を受け取ってしまっているということも、よくある。漠然とした前向き発言の語尾につく「させてもらった」という日本語には、使い方に疑問ありです。
(4)アナハタチャクラが目覚めて生じる超能力 より抜粋
まず、空気をコントロールできる、したがって、風もコントロールできるようになるといわれます。また、個人的でない宇宙的な愛が目覚め、雄弁になり、詩的天才が開花します。
これは経験からですが、ヨーガを行じていくと、自然と「表現力が増していく」ように思います。感覚の届く領域が微細になればなるほど、ものごとの共通点を見つけやすくなり、比喩などの表現力の鋭さも増してくる。
そしてそれはヨーガと一般的に言われている「体操チックなアレとか呼吸とか瞑想とか」に関わらない人でも、開発されている人がいる。表現力のある人たち。
チャクラについて書かれた部分の紹介だったので、さらっと流せるものなら流したかったのがすが、「一般的に」という記述のしようがない題材だったので経験談や私見が多くなりました。
「この題材、どうすっぺかな」と思う内容でしたが、ブログというのは「時」がくっついた非常にヨガ的なメディア。「今日の私見」が言いやすいのがいいなぁ、と思いながら感想を書きました。