年末にマレーシアのインドシティで「スワミ・ヴィヴェーカーナンダ・日めくりカレンダー」を見かけて、「うおぉ」と思いつつ買わずに帰ってきたのですが、帰国してからあの麗しいお顔の残像が離れず、本を読みました。
「カルマ・ヨーガ」と同じシリーズの本です。二段組で文字量も多く、かなり読み応えがあります。ページをめくるたびに脳ミソのどこかに花が咲くような感覚でありながら、膝を打ちすぎて膝がかゆくなる。説明技術にうなります。
1896年のロンドンとアメリカでの講演録ですが、なかでも「知」にフォーカスした編成で、インド六派哲学とヴェーダーンタの各派の主張を分解して再構成しながら話す技量がとんでもなくすごいです。(⇒「(哲学講義として読む)ギャーナ・ヨーガ」)
この本は、「カルマ・ヨーガ」の本と比較すると「マーヤー」の説明が秀逸です。
さまざまな角度・事例での説明がありましたが、なかでも以下にうなる。
われわれはわすれようとつとめているのです。あらゆる種類の快楽によって、いっさいを忘却しようとつとめているのです。これがマーヤーです。
(92ページ)
空は決して変わりません。かわるのは、雲です。
(292上ページ)
われわれの内部にいるトラはねむっているだけで、死んではいないのです。機会がくればとびあがり、昔のようにそのつめときばをつかいます。剣とは別に、物質の武器とは別に、もっとおそろしい武器があります。侮蔑、社会的憎悪、および社会的追放です。
(309ページ)
私は、この世界、もっともこみいった、もっともすばらしい、車輪の中の車輪、この複雑な機械のかたまりは働きつづけなければならないのだ、ということを知っているのです。では、われわれにはなにができるのですか。われわれは、それをなめらかにうごかすことができます。摩擦を少なくすることができます。いわば、車輪に油をさすことができるのです。どのようにしてですか。変化は自然かつ必然のものである、ということを、みとめることによってです。
(331ページ)
「幻」といってしまうと棚上げしやすくなる。でも、同時にそれは「混沌(カオス)」であるという事実にしっかり目を向けられるよう、首根っこをつかまれて何度も引き戻される。
以下は、ヨーガ・ニードラのサンカルパの説明にそのまま置き換えられそうな、すばらしい説明。
もし理想を持つ人が千のあやまりをおかすなら、理想を持たない人は五万のあやまりをするでしょう。ですから、理想を持つ方がよろしい。そしてこの理想についてわれわれは、それが自分のハートに、頭脳に、血管の中にはいるまで、それが自分の血液の一滴々々の中で振動し、身体の毛孔の一つ一つに浸透するまで、できるだけよくきかなければなりません。われわれはそれを瞑想しなければなりません。「ハートがみちあふれて、口がはなす」そしてハートがみちあふれて、手もはたらくのです。
(132ページ)
自分と対話することの大切さの説きかたが、沁みる。「できるだけよくきく」というのは、自分の中にある鉱脈を掘り当てるようなこと。
この本は哲学のほかにもカルマ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの定義の要点も語られています。
集中力のある料理人はいっそうおいしいものをつくるでしょう。集中の力がつよければつよいほど、ものごとはよくできるでしょう。これが、自然の門戸をひらかせ、光の洪水をあふれ出させる、唯一のよび声、唯一のノックです。この集中の力が、知識の宝庫の唯一のかぎなのです。ラージャ・ヨーガの体系は、もっぱらこれをあつかいます。
(341ページ)
「○○ヨーガって、○○なんですよね?」という質問に、ひと言で答えられることって、ないんですよね。
すぐにわかりやすい答えを欲しくなるのもまたマーヤー、その答えもまたマーヤー。
アメリカでの講演では、こんなトーンでお話されています。
この国ではみなさんが、ヨーガという言葉にあらゆる種類のお化けをむすびつけておられるように思われます。ですから私は、これはそのようなものとは何の関係もない、と申し上げることからはじめなければなりません。これらのヨーガの中の一つとして、理性を放棄するようなものはありません。それらの中の一つとして、みなさんに目かくしをすること、またはどんなたぐいの聖職者にせよ彼らに自分の判断力をゆだねようとしてしまうことなどを、おねがいするものはありません。超人間的な使者に忠誠をちかうようなことをおすすめするものも、ありません。それぞれが、みなさんの理性にしっかりとしがみついておられるようすすめています。われわれは、すべての生きものが三種類の知識の道具を持っているのを見ます。第一は本能、それはけものたちの中でもっとも高度に発達しています。これは、もっともひくい知識の道具です。第二の知識の道具は何か。推理です。
(中略)
このように、本能、理性および霊感は三つの知識の道具です。
(338ページ)
この講演の頃(=びべたんがシカゴ万博でキャーッとなった以降)のイギリスやアメリカは、先進しながらも内面に目を向ける以前のところでウロウロしている人がすごく多かったのでしょう。この講義があった1896年は、第一回オリンピックが行われた年。ヒッピー・ムーブメントよりも70年前に、理性を放棄したいマグマが沸々としていたことがわかります。
同時代の夏目漱石の講演録を読んでも、光を当てようとしているポイントはまったく共通のものに見えます。(「模倣と独立」の感想に、その共通性を書いています)
このような教えを読むたびに、結局気づきは本人の中にしか生まれないことがよくわかる。そこに種をまき続ける言葉の数々に「やさしいなぁ」とつくづく思います。次回は「びべたんがインド六派哲学を説明すると、こんなに沁みちゃう。すごい」と思った箇所を紹介しますが、そのまえにスワミ・ヴィヴェーカーナンダ関連の本は一家に一冊あるとよいはずなので、強めにおすすめしておきます。
たくさんの字を読めない人は、騙されたと思って「立ち上がれ目覚めよ!」を読みましょう。
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