うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

つぶやく人々について思うこと

今日はここしばらくずっと、「こういうことかな」と感じていたことについて書いてみます。twitterの話ではありません。リアルの生活でのこと。
これは不思議とヨガの知人や、知人とまではいかなくてもその場にいる人に多いと感じるのですが、妙に普段のなにげない時間につぶやき続ける人がいる。



「あ、シャンプーがなくなってきた」
「○○わすれちゃった」
「○▼×◎□・・・・」(特に記憶に残らない)



わたしには、「なんでそんなにいちいち口に出す必要があるのだろう」と、不思議でしょうがない。そして、そういう人に共通すること



 なぜかいきなりタメ口



よくわからないんです。敬語を使えといっているわけではなくて、なんとなくポライトな間隔を保つ語尾というのがあると思うんです。なんだけど、



 違和感を感じるほどの「タメ口」



だったりする。
職場では、部署のくくりとか役職とかそれなりに敬語の敷居のようなものがわかりやすく存在しているので感じることが少ないのだけど、ヨガに限らず、お稽古事などで接する人々との距離で、こういう違和感を感じたことが過去にもあった。


少し気にして観察していたころ、このブログの読者さんの「ざわわさん」が、ひとつヒントをくれた。



 生きていることを確認しているんじゃないでしょうか



なるほど。納得。
たしかに、そこで発生する第三者のリアクションや相槌で、自分の存在を他者から認識されていることを確認しているかのよう。


わたしは、こういう状況を放置する。
自分の耳で聞こえてるだろうと思うから。
なので、そういう人は自然とわたしの前でのつぶやきが減っていく。



 相手選んでるんだ。



そう思う。
なんで自分の耳では足りないのだろう。
別にだれかが相槌を打ってくれなくても、そこにいて孤独かどうかというのはその人が感じること。「孤独な状況」というのは、ない。「孤独を感じている状況」があるだけで。複数の人に囲まれて「あなたって、こうだよね」と思いっきり存在を確認できる話をしてくれる瞬間があったとしても、次の瞬間には「もう今後あなたのことを考えることは一瞬もないかもしれません」という状況がある。
わたしには、どうにもやはり、それは失礼なコミュニケーションに感じられてしまう。そもそもブーメランを投げるようなベクトルで言葉を発するのは、失礼なのではないかと思う。話し方によって、おもしろくもなるのに。