うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

無意識の構造 河合隼雄 著


夢と潜在意識分析の実例を織り交ぜながら、ユングの紐解いていった「心の構造」の2つの形が、思想の経過を追いながら書かれています。2つの形は本の中では図で書かれていたのですが、これをわたしなりに言語化すると

  • 普遍的無意識、個人的無意識、意識、自我がピラミッド状態。てっぺんに自我がある。
  • 全人格の中心に自己があり、それを包む無意識と意識の摩擦点にコンプレックスが発生し、そこに自我がある。

というもの。
後者がとてもインドのサーンキヤ哲学に近く、この後者の説明に「ユングの描いたマンダラ」と「チベットのマンダラ」が用いられています。
図を見るといっけん統合された一元論に向かっているように見えるのだけど、後者では自己を設定しているので、サーンキヤ・ヨーガと同じ構造で二元論化されている。「二元論を一元論で包んでいる」という、表現しにくいあの感じが、この本のユング解説を通じてじわじわくる。


ヨーガの教えの中には、実践してみると「これはどうやって現代の日本人に説明したら、誤解なくかつ依存なく、有効な練習として理解してもらえるかなぁ」と思うものが多くて、わたしのなかではヨガニードラがその最たるところにあります。いまの社会の風潮の中にある個人の意識の背景をふまえつつ、有効なメソッドとして語るにはまだ調査・勉強不足なところがあって、自分なりに研究を続けています。
そんななか、この本に出会って、ヨーガのメソッドに関連する部分では、以下の説明に多くのヒントを得ました。

  • 自己はユングの定義に従うかぎり、あくまで無意識内に存在していて、意識化することの不可能なものである。人間の自我はただ、自己のはたらきを意識化することができるだけである。(148ページ「自己」より)
  • フロイトユングも初期の頃は催眠を治療によく使っていたが、二人とも、後にはこの療法をやめてしまっている。それは患者が分析家に依存心を起こしやすく、そのために多くの障害が生じることが解ったのと、たとい催眠によって心的外傷を想起できても、催眠が覚めると忘れてしまってなんの役にも立たぬことがあるためである。しかし、催眠は無意識の研究には大いに役立つものではあった。(10ページ「深層心理学」より)
  • われわれはそれら(イメージやシンボル)を通じて無意識を知るべく、その特性をできるかぎり言語化し、意識化することに努めるのであるが、それによってもなお常に把握し残された部分のあることを忘れないと同時に、言語化を焦りすぎて。それらのもつ生命力を奪ってしまうことがないようにも注意しなくてはならない。(46ページ「シンボル」より)
  • われわれとしては、元型的なイメージの中に、人類に共通なものとしての元型を見いだす努力をすると同時に、文化の差によってそのあらわれ方に微妙な差があることにも注目してゆきたいものである。(中略)ある時代、ある文化において、ある特定の元型がとくに強烈な力をもつ場合も考えられる。ある元型的なイメージがひとつの文化や社会を先導する象徴となり、その集団の成員のエネルギーを結集せしめるときもある。(89ページ「文化差」より)

心について語るときにグレート・マザーの存在への意識があるかないかというのは、前提として大きな分かれ道と思います。梵宇宙を意識するか、「実父と実母から生まれたわたし」という家族組織の世界からものを見ていくかの違いは大きい。この人は、最大公約数を解くのが得意か、最小公倍数を解くのが得意かというような、いっけんわかりにくい違いなのだけど、すごく重要な分岐点。
その上に言葉のイメージが重なってくると複雑になるので、やはり文化や印象の背景をふまえた、"メッセージ性" の持つ生命力を意識して取り組むというのはとても重要と思いました。ITのマーケティングでよく聞く「エンゲージメント」というのに似ているのだけど、この重要性を強く説いている点がすごく励みになりました。そこにはやはりこだわっていいんだ、と思えた。そして、「こだわっていいんだ」と思う時点で、ヨガはやっぱり密教なんだと思いたいと自分が思っていることに気づきました(←読みながら分析ヒーリングされちゃった気分)。


自分なりにインド思想を咀嚼しながら悶々としている中で読んだ本だったのでポイントを統合した感想になりましたが、まとまった説明の中でとっかかりやすそうな部分を3箇所紹介します。自分自身に思い当たる人、身近な誰かに思い当たる人、いろいろかと思います。

<23ページ「人間関係」より>
 カイン・コンプレックスを持つ人は、同僚が自分を出し抜くのではないかと常に感じるものである。つまり、自分の無意識内にある他人を出し抜きたいという願望を、他人に投影するのである。投影という心の機制は対人関係の中によく入り込んでくる。投影は投影を呼ぶ傾向があるので、お互いに自分のコンプレックスを投げかけ合い、わけのわからないままに、「虫が好かない」と感じて嫌っていることも多い。その「虫」がいったいなんなのか、一歩踏み込んで探索してみると、自分の性格について洞察を得ることになるが、これは大変困難で、エネルギーのいる仕事である。

この本は、やさしいチョギャム・トゥルンパなんです。


<23ページ「人間関係」より 先の引用の続き>
 自分の劣等感に気づくことなく、むしろ、それを救って欲しい願望を他に投影し、やたらと他人を救いたがる人がある。そのような行為の背後には、複雑な劣等感と優越感のからみ合いが存在しているが、他人がありがた迷惑がっていることも知らず、親切の押し売りをする。このようなコンプレックスをメサイヤ・コンプレックスと言う。これは表面的には善意としてあらわれるので、克服することの難しいコンプレックスである。このような人は、気の毒な人の救済に力をつくしていると信じているが、実のところ、救済される側の人がおのれのメサイヤ・コンプレックスの解消のための救済者(メサイヤ)であることを知ることは少ないようである。

わたしが周囲の人と接する経験では、「ついおせっかいを焼いてしまう」という悩みの人は小心者でかわいらしく付き合いやすい人も多い。善意を本職とする級の人が、自分よりも有名な人に対しては悪い評判を流したり梯子をはずしたり、そういうことを無意識にやっていて驚くことがある。「弱者を救う」という方程式が反転して「強者は助けなくてもよい」となり、それに力が加わって「強者の足はひっぱってもかまわない」ということになっているような。力の使い方がねじれて見えることがあります。


<94ページ「影の種々相」より>
われわれ人間は誰しも影をもっているが、それを認めることをできるだけ避けようとしている。影には個人的影と普遍的影がある。

(前章に書かれている、AさんとBさんの不和に悩んでいる夢を見た人の説明をひきついで)

彼のいましなくてはならないことは、Aの生き方を攻撃したりすることではなく、Aに投げかけた自分の影を自分のほうに引きもどして、自分の無意識にある傾向を、どのように生きるかを考えるべきである。このようなことを、「投影のひきもどし」というが、人格の発展にはぜひ必要なことであり、勇気を要することである。

くどいようですが、内容がいちいち「やさしいチョギャム・トゥルンパ」なんです。



この本には、

  • アニマとアニムス
  • アニマとペルソナとエロス
  • 意見を好むアニムスとムードを好むアニマ
  • アニムスは協約の投影先を求める(うちこ要約)

が解説されていて、ここがメインコンテンツ。ここは読みながらセルフ・メディテーションができる部分なので、内容の紹介は控えます。トリドーシャとアニマ・アニムスの構造が同時に見えてくるとすごく面白いだろうなと思いつつ、ここが繋がっちゃったら見えすぎちゃって怖いのそう、とも感じました。



わたしはインド思想の分解術を先に学んでしまったので、それと比較する視点で読みました。キリスト教と神話学と心理学の関連付けが太い点も興味深かった。インド思想のなかでもサーンキヤやヨーガ、仏教はとても心理学的だけど、インドの神話学を見ても、勝負前の身支度を整える女の心理を「パールヴァティー・コンプレックス」と言ったりしないし、たくさんのお姉ちゃんをはべらせて何が悪い! と開き直る心理を「クリシュナ・シンドローム」と言ったりしない。まあ実際ジョージ・ハリスンなんかはそういう状態になっていたのだけど、心理学にそういう結び付け方はしないし、神はそんなおちゃめな部分も含めてバランスの取れた存在として愛されている。
なんというか、西洋思想の方が「神話を自己の心理に結びつける」というような、そういうところがあるように感じました。神が教えを説き、ときに弱さもおちゃめに表現してとりあえず踊ってしまうインドのほうが、わたしは肌に合っているようです。シリアスなのは、どうも苦手なんだな。