うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

カーウシータキ・ウパニシャッド(紹介3:佐保田鶴治 訳「ウパニシャッド」から)

このカーウシータキ・ウパニシャッド以降は、先に紹介した「チャーンドーギァ・ウパニシャッド」と「ブリハッド・アーラニァカ・ウパニシャッド」の焼き直しバージョンのようなものが多くなってくるので、「いやあんた、すごいわ!」という発見の感動はなくなってくるのですが、「細かすぎるモノマネ」的な味わいが出てきます。過去のウパニシャッドの説のアレンジなんだけど、それはそれで楽しめる。
なかでも「生気論」(プラーナ信仰、てなくらい)はこれ以降もほとんどのウパニシャッドに出てくるのですが、初めに紹介するチトラ王バージョンは、「そ、そっち行きますかっ!」という展開がすごい。
そしてもう一つ紹介するインドラ神バージョンは、宿命論の最古の文献と言われているものだそうです。インドラ神の俺様っぷりのハンパなさは、もう「俺様」という日本語では手に負えず「た、足りない! もっと "俺" を!」という気すらしてしまいます。
わけがわかりませんね。でも読めばわかります。

紹介いきます。最初のは、また「塩水親子」(クセになるわぁこれ)の話です。

<チトラ王の輪廻論 ── 梵神界への霊魂の旅路>
序話


 むかしガーンギアの後裔として知られたチトラ王は祭典を執り行うためにアールニを祭司に選んだ。かれアールニは自らは祭典に与(あずか)らないで息子のシヴェータケートゥを「かの王の為に司祭せよ」といってチトラ王の処へ遣わした。かれシーヴェタケートゥが設けの席に着いた時に王は問うた。
「ガーウタマ師(アールニ)の御子息、一体この地上の何処かに輪廻からの隠処があって、そこへ貴君は私を匿ってやろうとおっっしゃるのですか、それとも、君はその途の導きゆく世界に私を匿って下さるおつもりですか?」
「小生はそのような事柄については一向に存じません。いっそ、師匠に問うて参りましょう」そういって、彼は父の許にたち還り、「王は小生にかくかくのことを問われたが、いかようにお答えしたものでしょうか?」と問うた。
「そのような事はわしも実は知らないのだ。我々は是非ともかの王の玉座の下でヴェーダを習い、教えを受けようではないか。われらの如き身分の者には誰しも施与を拒みはしないのだから、かの王も知識の施与を拒みはなさるまい。さあ、両人で王の処へ行こう」


 こういってかれガーウタマは入門の薪を手にしてチトラ王の処へ来て、「随身させて頂きたい」と請うた。
「ガーウタマ師、貴師は婆羅門の尊位にありながら、克くも驕慢の心を抑制なさえた。よろしい、私は貴師に詳しく伝授いたしましょう」と王は彼に許した。

いい育て方してるなぁ、父ちゃん。


そして、チトラ王の説法です。

<生気論>
「生気は梵なり」とはカーウシタキの説くところである。いかにも、彼の説くが如く、この梵である生気にとって、意はその使者であり、語はその侍女であり、眼はその衛士であり、耳はその布達者なのである。


 意をこの梵である生気の使者と知る者は使者をもつようになり、眼をその衛士と知る者は衛士をもつようになり、耳をその布達者と知る者は布達者をもつようになり、語をその侍女と知る者は侍女をもつようになる。


 梵である生気へとこれらの総ての神々(意語等の感官)は請求されるまでもなく、貢物を献上する。これと同様に、以上の如く知る者へは一切有類が請求されるまでもなく、貢物を持って来る。かかる人のウパニシャッド(聖隠語)は「乞うなかれ」である。喩えば村落を行乞したが一物も貰えなかった場合、「おれはこの村の人間のくれるものは食わないぞ」と決心して坐り込んでしまうと、却って、往きには彼に拒んだ人達が「あげましょう」といって彼の処へ寄って来るようなものである。これが物乞いの法である。他の場合においても、物乞いの法を守るならば世人の方から「あげましょう」といって寄って来るものなのである。

「生気にはみんな貢いじゃうんですってば」というプラーナ信仰から「物乞いの法」へ展開するところがすごい。そしてこういうのは、組織で見られる「出世欲」現象を想起させる。「地位権力が欲しい」と申し出た人の管理する組織では、どうにもうまく「気」が回らないのだ。


そして次は、ジャイアニズムを超えるインドライズム。
「お前のものも俺のもの」「俺に歌わせろ」と大差ないのだけど、「俺に信義を伝授させろ」なところがインドっぽい。

<インドラ神から伝えられた生気論>
序話


 むかしディヴォーダーサ王の後胤であるプラダルダナ王はその戦歴と剛勇とによって因陀羅神(インドラ)神の楽土に辿り着いた。その時、因陀羅神は「プラルダナよ、我は汝の所願を叶えてつかわそう」といわれた。しかし、プラルダナ王はいった。


「貴神御自身で、私のために、人間にとって一等有益だとお考えになることをお択び下さい」
「優者は劣者に代わって択ばず、ということがある。汝自身で択ばねばならぬ」
「それでは、折角の御思召(おぼしめし)ではございますが、私にとりましては施願を頂かないことになります」


 それでも、因陀羅神は真実(信義)をお棄てにならなかった。それもその筈、因陀羅神は真実その物であらせられるから。


 因陀羅神はいわれた。
「ほかならぬこの我というものを知れよ。我を知ることが人間にとって一等有益なことだと我は思っている。我はトヴァシトリ神の三頭児を殺した。アルンムッカ派の行者どもを狼の餌食にしたのも我である。我はしばしば盟約を破って、天界ではプラフラーダに与した阿修羅(アスラ)どもを、空界ではプローマ党の阿修羅どもを、下界ではカーラカーシァ派の阿修羅どもを悉く刺し殺した。だが、この我はその際に毛筋一本も手傷とては負わなかったのだ。我というものを善く知ったならば、如何なる行ないをしてもそのために自身の世界(天界における果報)を損じるようなことはない。たとえ母を殺し、父を殺め、盗みをし、さては博識の婆羅門を弑してもだ。かかる人物は悪事を為さんとする時にも顔色一つ変えないものである」

いらん言うとるのに(笑)。
「それでも、因陀羅神は真実(信義)をお棄てにならなかった。それもその筈、因陀羅神は真実その物であらせられるから。」のところは、笑ってしまう。ここまでいくと「俺様エンターテインメント」になっている。そして最終的には・・・「なんでもアリ」になってます(笑)。



なんだけど、以下の説法はとてもいい。

<認識主体の自覚、認識と対象との関係>

 語を穿鑿(せんさく)するのは休(や)めるがよい。宜しく語者(かたりて)を知るべきである。

 香を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく嗅者(かぎて)を知るべきである。

 色を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく見者(みて)を知るべきである。

 声を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく聞者(ききて)を知るべきである。

 味を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく味の識別者(わけて)を知るべきである。

 動作を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく動者(うごきて)を知るべきである。

 快苦を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく快苦の識別者を知るべきである。

 歓喜、燕楽、生殖を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく歓喜と燕楽と生殖との識別者を知るべきである。

 歩行を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく歩行者(あるきて)を知るべきである。

 意を穿鑿するのは休めるがよい。宜しく思量者(はかりて)を知るべきである。


 上記の十の存在要素(語、香、色等)は叡智を予想し、また十の叡智要素(語者、見者即ち語、眼等)は存在を予想する。まことに、存在要素がなかったならば叡智要素もないであろうし、また叡智要素がなかったならば存在要素もないであろう。いずれか一方だけではいかなる事象(ルーパ)も成立しないのである。けだし、この両者は独立別箇のものではなく、あたかも車輛の�瑟(そとわ)や輻(や)に支えられ、輻(や)が軸に支えられているように、存在要素は叡智要素に支えられ、叡智要素は生気に支えられている。そしてこの生気なるものは叡智我であって歓喜、不老、不死である。


 彼(叡智我)は善い行ないによって偉くなることもなく、悪い行ないによって成り下がるということもない。それもその筈、彼こそは自分がこれらの世界から引き上げてやりたいと思う人間には善い行ないをさせ、貶してやろうと思う人間には悪い行ないをやらせる当人なのである。彼は世界の護持者である。彼は世界の主宰者である。彼は万物の支配者である。彼はわが自我であることをくれぐれも知っておくがよい。


【注釈】「彼(叡智我)は善い行ないによって……」以下の一句にインドにおける有神論的恩寵思想ないしは宿命論(predestination)の最古の文献として知られる。有神論的思想はカータカ以下の新しいウパニシャッドで益々盛んになる。

穿鑿(詮索)、しちゃうねぇ。まったく。
「この生気なるものは叡智我」といわれたら、自分の詮索のよりどころの存在からして全否定で、自分を殺していることになる。
さっきまで「俺様」として語られていたことが、「彼こそは自分がこれらの世界から引き上げてやりたいと思う人間には善い行ないをさせ、貶してやろうと思う人間には悪い行ないをやらせる当人なのである」となって、「彼はわが自我であることをくれぐれも知っておくがよい」という展開になる。
もう、引き寄せの法則がどうのってのが、ちゃんちゃらおかしくなる。「有神論的思想」を見直しちゃった。


なんでヨーガを学んでいるとウパニシャッドやらヴェーダーンタ哲学やらというものがついて回るのだろう、と思う人は、この「プラーナ信仰」をみたらそのルーツに納得せざるを得ない感じがわかると思う。
ちなみに「ヴェーダーンタ」=「ヴェーダ」+「アンタ」だそうで、「アンタ」については前回の「ブリハッド・アーラニァカ・ウパニシャッド」でちょろっと触れましたが、「定論」と訳されており、「ヴェーダをルーツとする定論」ということなんですね。自我(アートマン)と神人(プルシャ)をとことん追求してる。


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4 主要13ウパニシャッドの虫食い的抄訳
5 ヨガを日本に広めた先生が書いた本。