うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ジョグ瞑想 無意識コントロールの瞬間

9月になって涼しくなったので、ジョギングを再開しています。今週の日曜は、秋3回目の走り。今年は猛暑だったのと、仕事のほうで期限とか決めなければいけないことなどに慣れるのにエネルギーを使っていたせいか、マラソン大会に出ることもなく、出る予定もなく、ヨガだけでもできれば……という流れの合間に、季節を楽しむ感じでときどきジョギングをしています。

いつもは足の出かたや呼吸を観察しながら走るのだけど、今日は走りながら、ふとひとつの瞬間に気づきました。朝7時にスタート。早めのジョギングだったので、勾配のあるところでも自転車に乗った子供たちとすれ違うこともない時間帯。長い距離でアップダウンがあるコースを6キロくらい、ゆっくり走りました。

ときによっては、考えごとをしていたりすることもあるのですが、走っている瞬間の中には「まるで身体という自転車を運転しているような」感じがすることがあります。これは、多くの人が経験していることだと思います。
わたしの場合は、はじめの1.7キロくらいまでのところでエンジンサイクルが安定して回りはじめて、そこからです。それまでは、今日の足首や足の甲の中で起こっていること、腕の振れる感じやリズム、肺と呼吸と胸の裏の感じなどが「どんなかな〜」という感じで確認している。そこになにも感じなくなってきて「ああ、今日はこんな感じか」と思ったところから、自転車に乗っているような感じになります。


♪音楽はプライマル・スクリームの「Sonic Flower Groove」というアルバムを小さめの音量で耳に入れていました。


以前、走りながら呼吸を観察することについて「ジョグ瞑想」と名付けて書いたことがありますが、その日は勾配を登りきったときに「あ、いま、プラーナとバイタルだけだった」という瞬間がありました。あとで気づいた、瞑想に似た状態。
瞑想についてはアーサナのように書くことができないし、経験上「文章にするのは難しい」と思っているのですが、わたしは常々「攻略するように行うアーサナ」というのがヨガのよくない側面だと思っていて、今日はこの感覚を題材に、そこについて言及できそうだと思ったので、書きます。


ジョギングをするときもヨガのアーサナを行うときも、「身体の使い方」を意識します。みんな、何らかのかたちでしています。この意識のしかたには個性が出ます。


【走る前の意識】

  • 今日はこれだけの距離を走ろう。○○分でフィニッシュしよう。
  • なんとなく3キロは走ろう。苦しくなったら歩こう。
  • 脂肪は20分から燃え始めるらしいから、20分は走ろう。

【付随するさまざまな意識】
 →できるかな、不調はないかな
 →息が上がらないように、呼吸のエネルギーを配分していこう
 →○キロ地点まで○分でラップを刻もう。そのためにはこの歩幅、このピッチでいこう
 →1周目は元気なうちに早く走ってしまおう。あとは、流そう
 →もっと腕を振らなくちゃ。本に書いてあったように
 →足音がしないように、まるで経行のように走ろう
 →とにかく無心で走ろう


人によって、その日の気分によって、さまざまだと思います。
走りながら意識はさらに細かく、と「今は上り坂なので地面と仙骨の角度がこのくらいで足は高めにあげて疲れないようにしよう」とか、「今日はあえていつもの足のピッチよりも呼吸のほうが長めになるドライブで、呼吸に身体がどんなふうに合ってくるか、観察してみよう」なんてことを意識したりします。もちろん、「身体のおもむくままに、呼吸も身体に合わせていこう」ということもたくさんあります。


その日の気づきは、勾配を登りきったときに起こりました。
いつもだったら勾配がおわったところで平地の走りに勝手に戻っている感じなのですが、そのときは勾配のあとの平地でしばらく、登るときの身体の動かし方が続いていたんです。


 あ、今、呼吸とそれまでの延長の無意識の動きだけだった。
 でも、走り続けてる。(シークエンス)


それに気づいたときにはもう意識が平地の走りに身体をコントロールし始めていて、いつもどおり。コントロールを始める前の、意識のグラデーションの真ん中でふわっとしていた瞬間。このときは、呼吸(プラーナ)と生気(心と体を持ち上げているバイタル)だけだった。いつもこういう瞬間はたくさんあるのだと思うのだけど、その瞬間をなんとなくつかまえたような感じでした。


わたしは、まるで攻略法があるかのように「さあ、瞑想をしましょう」という向き合いかたにはいささか疑問を持っています。まだそのレベルに達しているとかいないとかそいういうことではなく、「結果を求める」こととワンセットになりがちだから。
今回のように走っているときや、写経をしているときのほうがよっぽど瞑想だったわ、と思うことがよくあるんです。走る、歩くなどの左右対称のシーケンシャルな運動は特にそれが起こりやすい。
「座っているときのほうが、身体の "存在" を感じやすい」というのもある。
アーサナが沖先生の言うように「動禅」かというと、攻略とまではいかなくとも、なにかしら「次はこうして、ああして」という気持ちがある。
なので、走ってみる歩いてみる


いま女性誌でスピリチュアル花盛り! とばかりに特集がよく組まれているなかで、瞑想についての情報も見かけるのですが、「やった気になること」「やれる気になること」「でも、やらないかもしれない情報としてのメソッド」という発信の構図は、意識の低下を助長するとても恐ろしいことだと思っています。「量産型の情報」に落としこむのは、とてもむずかしい。「やっぱ専用(実践)じゃないと」っていちいちガンダム風にすることもないのですが(笑)、日常の中で意識をつかまえる瞬間を増やしていくことの法が、よっぽど正しいアプローチだと思う。


平積された雑誌の見出しを見ながら、そのへんのヨガOLとしては、こんなことを思ったりするのでした。