うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

整体から見る気と身体 片山洋次郎 著

1989年に刊行された本に加筆をいれて2006年に出された文庫本です。半分くらい、Q&A形式で展開します。「整体 楽になる技術」を再読してからまたこの著者さんの本が読みたくなりまして。これまでに、このほかにもめぐこ姐さんが貸してくれた『身体にきく―「体癖」を活かす整体法』と『骨盤にきく 気持ちよく眠り、集中力を高める整体入門』を紹介したことがあります。
面白くてあっという間に読んでしまいました。この本では、現代の整体師としての著者さん自身のお考えが述べられている箇所がいくつかあります。
一箇所、まるで沖先生や天風氏の本を読んでいるかのような爆裂爽快な箇所がありました。そこも含めて引用紹介しますね。

<38ページ 無意識の領域 より>
人によって感受性が違ったり、行動パターンが違ったりするのは、生れつきのものであるということです。例えば外側からいろいろ与えられる教育とかしつけとかいうものでも、それを受け止める側の感受性によって、同じことをされても全然受け取り方が違いますから、形成のされ方が
違う、そういう意味で両方で人格が形成されているという考え方ですね。

「同じ状況」に置かれて「捕らえ方が違う」場面での人の強さと弱さを語るとき、無意識レベルで「状況」に目の位置を置いていたことに気づかされた一文。ほんとうの意味での「人格」の捕らえ方って、そうじゃない。ぜんぜん同調できてなかった。反省。


<40ページ 見る人によって変わる より>
── (Q)体癖について、まとめられたのは野口さんだけど、自分との対応の形で主観的に書かれているんですね。
 だから不満のある人もいるようです。例えば「消化器型」というと野口さんはほとんど目の敵みたいに書いていますから、ある消化器型の人が野口さんの体癖の本を読んで何か他の体癖に変えてくれませんかという人がいました。ところが、そういうことを言う人が消化器型だといえるということなんです。

ここ爽快箇所です、はい。野口先生と親交のあった沖先生(この二人、本当によく似ていることをおっしゃる)の主張に共感しながら読んでいるわけなのですが、沖先生がめちゃくちゃ謙虚っぽく発言される他力本願な質問に対して、「きさまのその態度がそもそもなってないんじゃヴォケェ!」というときの爽快感に似ています。やっぱりここ、オブラートにくるんでたら結局指導者なんて身分の人はいらなくて、それは奉仕業(行)ではなくてサービス業になっちゃうんだと思うんです。というのがうちこの考え。今っぽくないでしょ(笑)。


<43ページ 「体癖」はパラメーター より>
その時のエネルギーの状態によって偏っている時と、あんまり偏っていない時があって、エネルギーが強いほど傾きが大きい。何かに集中するということは、傾きを強くするということですから、何かの方向にすごく集中してエネルギーを発揮するということは、その時にバランスを強く崩しているといえます。集中して発散してしまった場合にはバランスがまたそこに戻るんですね。

ブログ用に本の内容を転記しているとき(スキャンはしません)、脚組んじゃっててめちゃくちゃ捻れてるんだけど、それが集中ポジションだったりする。ヨガのときは、かなりアライメントと気道を細かく意識する方だと思う。この二種類の「集中」は目的が別のものとして、身体が受け入れてくれていると思う。


<46ページ 生理的不完全さを生きる より>
── (Q)生理的に不完全とはどういうことですか。
 人間が一番、生れてから一人で歩けない時間が長い。しかも食べるものも自分で判断できない。これは毒だとか大丈夫だとか分からない。他の動物だったら、まず考えなくても食べられるわけですけど、人間の場合はそれすらもできない。教育というものがないと、生きていくこと自体ができないんですね。そういうのを、生れつき持った不完全な状態だといえます。知能があるということは、不完全だからあるので、完全なら何も考えないで生きていけるはずなんです。
 たぶん、最終的に脳が左右の対称性を失ってしまったということが一番の大きな問題で、それでもうすでに生れた時から野生で生きるというのが失われているんです。
だから自分を保護する人工的な環境なり、文化的な枠組みなりを作らないと生きていけない存在なんです。そうでなければ、整体なんていうものもいらんし、医学も生れてこない。自分の命を守ろうなんて発想も出てこないし、長生きしようなんて発想も出てこない。宗教も出てこないでしょう。

社会があるから、ヨガがある。コインの表と裏なので、「ヨガの世界だけに浸っていたい」的な発想はとても非インド的です。


<73ページ 体の内側から外側を見る より>
 少し話は変わりますが、子供と大人とでは意識の在り方が違います。どう違うかというと、子供の場合は、自分の内側に意識の中心があって、内側から外側を見ているということです。一般に、この状態が、気の集中という場合には必要です。外側から自分自身を見るという、意識の中心が自分の体の外側に出てしまって、外側から自身を見るという状態になると、集中できない。例えば自分の手でお腹を触るという場合に、普通は手の方に意識が強くいってしまう。

この後この文章は「手で気を通す話」になるのですが、ヨガの場面だと、同じように意識のサジェストをこちらから言葉でしたときに、それを身体で聞く人と頭で聞く人で大きな違いが出る。それで、「わたし、できてますか?」という逆サジェストの視点は「わたしが感じていることは、あっていますか(身体で聞く人)」「他の人と同じような形にできていますか?(頭で聞く人)」ということになる。ヨガ仲間のミカさんやゆきんこと話すとき、だいたいこの話に終着する。


<81ページ エネルギーの使い方は人によって違う より>
眠るのが好きな人もいれば、ほんの短い睡眠時間があればいいという人もいます。
 これらの場合も、どちらがいいということはなくて、例えば睡眠を例にとると、眠っていること自体にすごいリアリティがあって眠っている時間に充実感がある人もいるんですね。だから眠っている時間に充実感のある人の睡眠を奪ってしまえば、非常に具合の悪いことになるし、逆に眠っている時間に何の充実感もなくて、ただの休みだという人が八時間寝なければいけないというので八時間眠っていれば具合が悪くなってくる。つまりその人の本来の状態に即した生活ができているかということが、その人が元気でいられるかということと大きく関わってくる。

わたしは、寝る時間は本当に事務的に、「引力に逆らわずに休む時間」という位置づけ。なので4〜5時間あればじゅうぶん。1時間しか寝れないときも、1/4はチャージしたから、あとは移動中に眠りはしなくても引力に逆らわない動きを足しあげて行こうとか、そういう計算をしている。なので、移動時間も睡眠と同じようにカウントしています。いびきがものすごいんですけどね……。左の膝、出まくりです。
夢は年に10回も見ない。見ると「き、きょう、見たーーー!」って大騒ぎしてます(笑)。


<101ページ "過敏"という適応 より>
── (Q)反応することで、バランスをとろうとしているということでしょうか。
 そうですね、一つの適応の仕方だと思います。そういう適応の仕方をしないと、今の社会はそれだけやっていきにくい。例えば、現象的にいえば、物事の価値観がころころ変わっていくのに、一つの価値観にしがみついているようなタイプの人というのは、すごく苦しいわけですね。ところが過敏な反応をする人たちというのは、一つのものにしがみつかない、逆にいえばしがみつけない、一つの価値観を信じられないという傾向があるんで、どれでも構わないんですね。どんどん次から次へ移っていってしまうのです。それは、そういう社会の在り方自体が要求しているものだと思います。そうじゃないと、苦しくていられない。

仕事の場面でなにかを変えなければいけないときは「過敏なリアクション」に対して、そのブレーキを先に計算しておいたらいいですね。絶対にある係数なので、織り込んで立てた速度のプランを元に話せばいい、というのがうちこの考え方なのですが、「あそこが拒絶反応を示しています」っていちいちブレーキ発言をされる。「そりゃ、そういう反応もあるでしょうよ」と言うとものすごく冷淡に見られる。でも、考え方はむしろ冷淡ではなくて、「それ自然の摂理として織り込み済みでーつ!」って、生き物の行なう業のプロセスとして受け入れているよ、ってことなんです。「拒絶反応を示すあの人」も仲間なんです。バランスは刹那に変わる前提だからね。


<107ページ 鬱と躁状態 ── 眉間の緊張と発散 より>
眉間が緊張するというのは、一つの執着心の在り方なんです。眉間が緊張する人は心臓が悪くなりやすい。だから、どうも心臓病とかがんとか、脳溢血とか脳梗塞とかいうのは、同じ系統みたいなんです。同じような、執着心の強いタイプの人がなるという感じですね。

3年前に「覇権欲」について書いていますが、わたしもやっぱり眉間をサインとして見ていました。


<165ページ 気分よく生きる知恵 より>
 おそらく他の動物の場合、もともと二本足で歩かなくていいということは、例えばお産にしても、かなり楽なんですね。人間みたいに立っていると、さっき言ったように、お腹の力が抜けてしまうと、全然バランスがとれなくなってしまう。それが四つ足で歩いていれば、そういう心配があんまりなくて、お腹の周りに力がなくても、歩くぐらいは困らないんですね。人間の場合、そこらへんが、一つは不完全にできているということで、いろいろと、もともと無理がある。逆にいうと、それをうまく利用するのも、知恵の在り方だといえると思います。

丹田の存在の認識や付き合い方への意識に、示唆を与えてくれました。感謝。


<237ページ 親が子を見るとき より>
 例えば、親が子を見る場合、この子はこういういいところがあるとか、悪いところがあるとみていくとしますね。いいところがあるというのを強くみたとしても、悪いところがあるというのを強くみたとしても、両方とも子供にとっては負担なんですね。面白い子だとみた場合には、子供の方はそんなに負担じゃないんだと思うんです。親も楽です。こういういいところがあるといえば、そのように子供はならなければいけないし、親もそういうふうにしようと思ってしまうし、ある種の期待をかけてこういう人間になってもらいたいという価値観が生れる。だけど、面白い子だというふうに思った場合は、お互いに楽で、そういう意味では健康なんだと思います。生き方も、自分も相手もこういういい生き方とかいうんじゃなくて、共鳴を軸にして面白い生き方ができればいいというふうに考えれば、今みたいな世の中だったら、とくに楽だと思うんです。

最近めきめき若い衆と仕事をしますけれども、「ウケた」「滑った」までがアイテム化されているかのような得点ゲット反応が、本当に気の毒でなりません。なので、「面白い」というときに、ちゃんとその面白さを表現する力が求められていると思います。「わたしはココがツボりました」というリアクション技術の繊細さが求められています。あと、仕事の場面で親側は「好き」って言えないと、だめね。「面白い」というのはまだ向き合い方に逃げがあると思う。


<243ページ 野口整体の場合 より>
 もっと大きく切り離して、治療ということを至上の目的にしているか、していないかということで言いますと、野口整体は考え方として「治療を捨てた」ということがターニング・ポイントで、病気というのは、その人の生きることの中で一つの経過にすぎないという考え方ですね。病気があっても、そのときどきでバランスがとれていればそれでいいんだという考え方が大きなところですね。

沖先生も、「修正する気持ち」からインプットしていたから、「バランス技術」の伝授であって「治療」ではなかった。沖先生のことばで言うところの「人間回復の道」。治療を捨てているね。


<245ページ その人の行きたい方向に より>
 しかし野口整体は、技術的なことではなくて、思想的なことで、大きい意味があったと思います。人間を見るときの一つの見方、方向を与えてくれたという点がものすごく大きいと思うんです。結果的にはいろんな見方が違うところから出てくるんですけど、僕の場合は人をこういう方向に指導するんだということが弱い。その人は、その人のあるべき方向に自然に、例えば気の交流というものが成り立てば、自然にそういう方向にいってしまうものであって、こういう方向に行けといったから行くものじゃなくて、行けといってもいやなものは行かない。その人の行きたい方向に自然に後押しした場合は、そっちの方にスムーズに行くんですけど、そうじゃない方向に後押ししても、全然その人は動きたがらない、本質的には動かない。
 それで、野口さんに、こっちへ行きなさいという感じが強いのは、そうじゃないようにしているつもりでも、そうなってしまうということかも知れません。僕の場合はたまたまできないからで、自然に、無理にこっちへ行けということは、やろうと思ってもできない。無理やりに治すというのは結局できないんです。野口さんは、おそらく、治療的に、無理に治してしまうということもできる人です。
 例えば、気をあるところに集中して、丹田に無理にでも外からの力で気を集中してしまえば、バランスはそれなりにとれるんですね。とれるんですけど、本人がその気になってそうしたんじゃなければ、長い目でみたら、やっぱり駄目だと思うんです。でも短い期間をとれば、それでも治療ということで成り立つと思います。

この著者さんの「僕の場合はたまたまできないからで」というスタンス、現代感でしっかりと世の中に対して整体で奉仕したいから、という気持ちがすごく伝わってくる。ヨガの場面でも、たとえば「要望」に近いノリで「改善の相談」を受けたとき、「どのくらい本気かな(実行ありきの提案になりますよ。「ザ・解決策」というご希望であれば、不満な回答になるからそこに時間かける気ないんだけどぉ〜)」というヨミから回答の仕方は組み立てられていくのだけど、そのときの同調の立ち位置を定めるのに、こっちは亡霊くらいの勢いで姿を消さないといけないんですね。なんだけど、質問する側には当然「あなただから、相談する」という「あなた(わたしに向かって)」というベクトルがこっちへ向かってきている。もうそういうときは、とことん相手から言葉を引き出すというのがうちこのやり方なので、そこはすごく著者さんに共感します。



今回は、この著者さんの整体への向き合い方を読みながら、何度もヨガへの向き合い方を問うていた気がする。いまみっつ、自分のヨガの周りで小さな変化が起きています。それはいつここに書くことになるかわからない、ずっと書かずにヨガの栄養として吸収されるのか、とにかくなんなのか今はよくわからない。
自分でとりにいった縁ではない「なりゆき」なので、「さて、この議題がわたしのところへ投げ込まれてまいりましたよ」という感じで、無理のない範囲で対応しています。
なにか、「引き出す技術」を習得するステージに来ているのかなぁ。こうやってずっと課題が舞い込んでくるんだろうな。長く走れるタイプのフォースを管理しなくては。

整体から見る気と身体 (ちくま文庫)
片山 洋次郎
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4 「整体」入門の必携の書
5 これを読んで、体から発せられているメッセージを聞いてください
3 膝を緩めて立つ


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