うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

野生の哲学 ― 野口晴哉の生命宇宙 永沢哲 著

タオイストとしての野口晴哉氏を徹底分解した本。
F・カプラの「タオ自然学」や、マイケル・タルボットの「投影された宇宙」をおもしろく読んだという人にも興味深い一冊になりそう。

著者さんの経歴上、共通点を見い出した例を展開される方向がチベット寄りなので、チベット密教になじみのない人は偏った印象を受けるかもしれませんが、わたしがいちいちヨガ方面に結び付けたくなっちゃうのと同じかと思います。
野口先生本人が「いろいろあってさ」というようなことをよく書いているので、後期にアウトプットされたものを重視しているのですが、そこへいきつく流れを追うことができた。こういうのは、本人談だとオブラートにくるまれがち。それはひとことでいうと「やっぱり」という感じで、先人の教えはその言葉や思想だけでなく、社会の状況に合わせた「チューニング」がなにより興味深い。
野口晴哉氏の本音をつむいでルーツを加え、ちょっと著者自身の思想も織り交ぜたり紐付けたりした」というブレンドをまるごと楽しんだらよいと思います。偏ってるとか歪んでるとか、そういう視点で本を読むとつまらないから。
いつものように、厳選しているつもりなんだけど多くなりがちな引用紹介です。


■第一章裸の人間愉気について

<16ページ 関東大震災 より>
すべての習慣が一瞬にして崩壊した震災の体験は、晴哉の中のアナーキズムを完全に解放するカタパルトとして機能した。そのことによって、彼には、十九世紀的な衛生思想とも、機械論ともまったくちがう病へのアプローチを行ない、それを深く大きな体系に育て上げていくことが可能になったのである。

「習慣の崩壊」から、人はどこに向かうのかということを思う時間が、この一年でわたしもずいぶん増えた。


■第二章複数の声生命について

<74ページ 自然の息 より>
 野口晴哉は、人間の霊魂にまつわるさまざまな超常的な能力について、ある時期から、それが「平凡」だと考えるようになった。そのため、そういった物事に対して、笑ったり、泣いたり、歩いたり、飯を食ったりといった、ほかの「平凡」よりもことさら高い意味や価値を与えることをしなかったのである。
本当に大事なのは、何にもよることなく、独立して生き、自分自身の足で歩くことだ。(中略)宗教、特に東アジアの宗教には、さまざまなパラサイコロジカルな現象を「奇蹟」に仕立て上げ、そのことによって人間を支配と従属の組織につなぎ止めてしまうような根深い傾向がある。生来のアナーキスト野口晴哉は、そんな欺瞞に我慢することなどとてもできなかったし、無知に対する徹底した嫌悪感を抱いていた。

野口氏のことばの力は、ここにある。なにかを(=自身を)特別視したがる心のはたらきと潜在意識まで、粒子レベルで分解しきっている。そこから生まれる「すべては、結局ブレンドなのよ。以上。」という着地が「先人が教えてくれたもの」。体癖がいくつだのどうのというのは、インド式計算法のように分解と再構築のメソッドに似ている。


■第五章青空の心天心とは何か

<201ページ 金縛りを解く より>
松本道別:大正から昭和にかけて活躍した療術師で、野口晴哉鍼灸師の叔父と並んで師と考えていた人物)
 若い晴哉は、野蛮なもの、未開なものとして捨てられようとしている野生の叡知を現代に甦らせようとする、このような道別の思想に、自分とよく似た知性のあり方を感じ取ったのである。その直接の影響は、たとえば、道別に由来する「人体放射能」の概念を用いて展開された初期の「全生」思想のなかに、見てとれる。松本道別は、ヒンドゥー教の「プラーナ」、中国の「気」、ギリシアの「プネウマ」が人類に共通の体験から生まれてきていることを指摘し、それを「人体放射能」── この表現には、当時輸入されつつあった相対性理論量子力学の余波も感じられる ── と名づけていたのである。

もうそういうの全部学んだ上で発せられているというのは、野口先生の本を読めばわかるのだけど、こんなルーツがあったのか。

<207ページ 天心の存在論 より>
晴哉によれば、活元運動をつうじて、心と体が根源的なダイナミックな統一状態を生きるようになるとともに、体も心もなくなってしまう。そうやって、物質と心、内と外との境界が崩壊すると、別の次元が開かれる。宇宙の根源からたえず湧きおこる<気>をそのまま生きるようになるのである。

こういうことって、書きようによって神秘化されちゃう風味になるのだけど、身体で感じるともっと軽やかなもので、それは「あー、気持ちよかった」と、自然に口から出るもの。わたしはこれを聞くと、耳から伝わって「みんな、生き物だなぁ」と感じる。こういうちょっとしたことに胸がゆるむ。


■第六章身体の森体癖の理論(1)

<249ページ体癖 = 運動系の理論より>
はじめのころ、晴哉は「キリン」とか「熊」とか、動物になぞらえて、体の動かし方の癖、体質、<気>の質を説明している。

これがのちのち12種の体癖(体型)にまとめあげられていくのだけど、まとまらなくても、こういうことはありとあらゆるところにある。

<280ページ体癖と気 ── リビドー・マンダラより>)
 国家神道 ── それはキリスト教を背景にして生まれた近代思想の一神教的な思想構造に対抗するために、それに似せて作られた人工物だった ── によって、ブッダと神々がおおらかに共生する精神と自然の森林を崩壊し、多様な生命のありようを否定し、自由な表現を押し潰していくような社会や政治のやり方は、生命の無知にもとづいている。そして、無知にもとづいて作り上げられた社会は、早晩滅びるしかない。晴哉は、生命に対する愚鈍や無知が、宗教や「道」の名をもって声高に語られることに、とても我慢できなかったのである。

身体論を学ぶとき、こういう社会背景や権威の意図や歴史の流れが切り離せない。この本は、全般を通してここの紐付けを切り離さないところがよい。そこがこの本の読みごたえと感じました。



この本は、わたしが野口氏の理論を紹介する時に「むずかしいな」「誤解を生みそうだな」と思うところを、第七章でうまく説明してくれていました。性別についての考え方。中略のしかたにはわたしの意図も含まれます。
■第七章天使の性体癖の理論(2)

<296ページ 性的身体 より>
(野口氏の男女の「性」質についての思想紹介のあとに)
ここで少し気になるのは、性的身体をめぐる晴哉の思考が、近代社会の性別分業を無批判に受け入れて生まれてきたものではないかということだ。

(中略)

職業や仕事のやり方に、それ自体価値や意味があるわけではない。「全生」する一生の部分として、ふさわしければ行ない、そうでなければやめる。生命や身体のありようにふさわしくない仕事を中心にして生きることは、生命の本来の力を発揮することから離れることになるだろう。個性 ── 性や身体はその一部だ ── にあった仕事や生活の仕方を選び、お互いの特性を発揮しながら生きていくことが必要だ。ただ地位や俸給が同じだから「平等」だというのは滑稽だ。

(中略)

性にとらわれている時期、男は「労働用の動物」であり、女は「生殖用の動物」である。── 晴哉は、いつもどおり野蛮な言い回しで、そう表現している。その時期を卒業すると、「人間」になる。もちろん、性がなくなるわけではない。転調した別の音楽のなかで、違った意味をもつようになるのだ。

(中略)

天心の知恵にしたがう個人が少しずつ生まれることによって、社会も文化も変わるだろう。そのための方法を示すことが、彼の整体「指導」であり、体癖修正だった。

ここは少し説明が必要なところかもしれない。野口氏の「性」の記述は、いわゆるそういう考え方とおぼしき文脈に「キーッ」となる女性は間違えて反応してしまいそうな(野口式では「感応」か)、そういうところがある。ここで著者さんは「晴哉は、いつもどおり野蛮な言い回しで」と書いていますが、わたしの場合は野口先生の影響を受けた沖先生の「もっと野蛮な言い回し」に慣れた状態で野口先生の本を読み始めたので(笑)、こういう記述はすごく腹落ちするんです。
この本の著者さんのスタンスとして書かれている【ただ地位や俸給が同じだから「平等」だというのは滑稽だ。】というのはすばらしい現代訳。喝采を送りたい部分でした。
男性でもすばらしい「母性」を持った人、女性でもすばらしい「グイグイ感」を持った人がいる。「○○力がある」「○○性がある」という人の能力の捉えかたは、もっと繊細に語り合う時間が増えないと、天井の決まったパイの奪い合いでしかない。クリエイティビティやストレッチできるリソースを感じるためには、きっともっとオープンな言語が必要なんだ。「明るさ」って、そういうことなんじゃないか。個人的にそんなことを思っています。


■第八章自然の死

<317ページ 波動のタナトロジー より>
晴哉の作った詳細な身体地図において、鳩尾は、きわめて重要な位置を占めている。身体は、さまざまなポイント(「処」)に、虚実と異なる質の気が分布するカオスモスの森としてできている。その身体の原生林が、カオス的な秩序の中でバランスよく生成するには、腹部では、身体の中心線に沿って、下腹が実で、鳩尾が虚、へそ上が中間の冲、であるような気のエネルギー勾配が必要だとされる。この関係が破れるときには、身体は、大きな変調の中に置かれることになるのである(かつて流行した岡田式正座法の場合、鳩尾に力がはいるような姿勢と呼吸の組み合わせのため、脳溢血を起こしやすいと、晴哉は指摘している)。

身体について触れられている内容のなかでここをピックアップしたのは、肋骨の上下と開閉に触れられているから。日々「油断すると肋骨が開いてしまうのだけど、それってどういうことなんだろう。ほどよく開閉できる状態で動けているときに力が届く領域はどこだろう。」なんてことを意識している。
この意識は「虚」をコントロールするということなのだろうか。この部分を読んで、そんなことを連想しました。
岡田式正座法への指摘については、背骨と腰椎で人を観る野口氏にはツッコミどころが多かったのではないかと思います。この時代の呼吸法の教えを読むと喉の使い方(頚椎2番3番あたり)への細かな言及が少ないことに不思議を感じます。



余談ですが、この本を読みながら、中学校への武道の導入について、わたしなりにいろいろと思うことがあるなかまとめられずにいることを次々連想しました。なぜまとまらないかというと、それは「まとめない」ってだけのことなのですが、そこが問題なんですね。結局ははじまってから出て来るものが結果だから。文部省のこの試みの意図は、すごく理解できる。うまくやれるか。うまくやってほしいな、と思っています。
義務化することが問題なのかというと、そこではないように感じています。習得するものはなんにせよ、いかなる教えにも「宗教的だ」「抑圧的だ」と言おうと思えば言える要素がある。辞めさせる理由には事欠かないんですね。
ひとりひとりが「やってよかった」と思えるか、「なぜ、やってよかったと思えるのか」ということを分解できるか。若者たちの生命力を信じぬけるか。それに尽きると思います。



野口先生も、きっとそういうことを伝えたかったのではないかな。
熱意あふれるこの本の著者さんのオタクっぷりに、胸を熱くさせてもらいました。

この本は文庫もあり、手軽に入りやすくなっています。

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