うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

泣いているカルマ・ヨガ女子の正しい励まし方

わたしはどうやら、2年に1回くらいのペースで泣くようです。職場で涙を流すほどのことというのはめったにあることではないし、今日はそれなりに自分で咀嚼分解できていたつもりだったのだけど、今日はなんだか涙が出てきてしまったんですね。
職場では席にいるといろんな人が話しかけてきたりするから、非常に泣きにくい環境だったりします。発端になった状況を細かく分解しながら、自分にできることを考えているうちに、呼吸が浅くなってきてしまった。こうなると、分解速度を上げてはやく切り替えるしかないのだけど、残念なことに先月席替えをしたら勘のいい先輩が、表情がわかる位置に座ってる。ななめ向かい。


「これは気づかれちゃうなぁ」と思ったのと、発端状況がセンシティブすぎたのと、同じ立ち位置の人(上司とか部下とかでなく)じゃないとわからない板ばさみ状況だったのと、とにかくいろいろで、「どうしたの?」って先に言われたら絶対「わぁーーーーん!」って爆発して周りがびっくりするから(以前そうなって大変なことになった)、先に話してみた。


そしたら


 抱えろ。がんばれ。


と言われた。
ありがたい。


「ひとりで抱え込むなよ」という性質のことではなくて、とある人からのSOSをわたしが受けたその状況が非常にセンシティブな要素を含むものだったので、「わたしが」抱えないといけなかったんです。なので、先輩がいまにも泣きそうになっているわたしに言えることは、結論、それしかなかったわけです。


 正しく励ましてくれて、ありがとう。


と思いましたた。
その状況の背景に含む分解要素を、あまり話さなくてもわかってくれたのがありがたい。伝えるのすらもつらい作業だったんです。わたしには腹を割って話せる女友達も男友達もいるけれど、状況的に女性に話せば「なにそれ、あまりにひどい」となるか、逆に「そういうのも乗り切らなきゃだめ」ってなるかで、いずれにしても、ラジャシック。男性に話せば、当然そんなことを話せるのは100%ジェントルマンだから「そんな状況は許せねぇ!」ってなる。これもラジャシック。


いま起きている問題と「この状況」の要素をずっと考えていた。「男性の性的な覇権欲」も「女性への差別的な定義」も、「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」に丸あかしで書いてあるくらい絶対にあることだから、あるもんは、ある。そういう性質は、ある。それが教典に正当化して書かれちゃうほどの男社会が、ヨーガの世界にすらもある。
それが、発現できちゃった状況と、下手に声をあげたら「みんなで一丸となって進んでいる雰囲気に水をさした」と言われかねないムードについて、数日じっと考えていた。
いまになってこのことで胸を詰まらせているわたしに、先輩は


 ただのヒステリーみたいに受け取られかねないから、慎重に。
 そういう状況を流しちゃう人の方が、実際多いと思う。向き合おうとする自分を褒めろ。
 抱えろ。がんばれ。


と言ってくれた。
この先輩は男性なので「ただのヒステリーみたいに受け取られかねない」という指摘がなによりも助かる。
それでもやっぱり涙が出てしまったのは、抱えていることを話したら慰められたり応援されたりして、人のやさしさに触れてしまうことがわかるから。やさしい言葉というのは、きっと澄んではいない。ザラザラとしているのだと思う。最初の粒子が触れた時点で、もう涙腺ぶっちぎれてますからね、わし。
クリアなものは、やっぱり沈黙だけなんだな。ただ黙って寄り添え。というシュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカール氏の言葉を思い出す。まあ仕事中に黙って寄り添われたら、そりゃ迷惑なのですが(笑)。


ヨギは応援されたり励まされたりしなくても、聖なるものへの信念を持ってひとりで歩ける者でなければいけないから、いいことにも悪いことにも一喜一憂せず、ひたすらバランスしてフローして。しかも、周りまで「照らせ」ときたもんだ。ものすごいパワーが求められてる。
「できっこないわ!」と言い訳したくなる気持ちもこれまた自我なので(きびしいんだよねとにかく)、とりあえずできるだけ自我は置いておいて、ヨガ的に仕事をするように心がけているのだけど、まだまだ修行が足りないなぁ。特に今回のは完璧に抱えきらないといけないようなことだったのになぁ。あーあ。
(というわけで、今日は抱えている写真を使ってみましたよ)