整体の視点からいまを鋭く見た一冊。サブタイトルは「整体でわかる情報ストレスに負けないカラダとココロのメカニズム」。
過去に二度読んで感想を書いた「整体 楽になる技術」よりもサブカル色は控えめに編集されています。
mixi、ツイッター、Facebook、女子会……。このあたりの空気と身体のヨミのほか、オウム真理教の時代の情報化社会と現在では情報量が比にならない状況であることなどから、話題がざぶんざぶんと展開する。読むほうも楽しくて止まらない。
基本的な現況把握がズレてないので、安心して読めます。ITにどっぷりな生活(それが仕事なので)をしていると「世の中がこうなったので」という背景の時点で「うーむ」と思うことがけっこうあるのだけど、その「うーむ」がないので、「こういう書き方をすると、若者を批判したい中高年がこういう読み方をしちゃうだろうなぁ」なんて老婆心を起動しなくて済む。
整体の指南書ではなく「整体の視点で観る、いまという時代」という切り口です。タイトルもニクいですよ。取材もそのコンセプトにあわせて行われていて、脱線して書きたいことがいっぱいあっただろうに、と思うくらい。そこは徹底してフォーカスのしどころをタイトルに沿わせてチューニングされています。やるね集英社、と思いました。
もしわたしだったら……と勝手に別のタイトルを考えると、「ソーシャル化する身体」とか「骨盤で受け流す身体」といったタイトルが浮かびます。前者だと30代後半以上が飛びつくでしょうし、後者だともっと上の層がターゲットになりそう。それでもこういうタイトルに落ち着いたのは、きっと、20代へのあたたかい視点に包まれた内容だから。
個人的にはこの著者さんのサブカル色が大好きなのですが、それは今読んでもその面白さがまったく色あせない「整体 楽になる技術」で楽しんでいただくことにして、今日はこの本の編集コンセプトにあわせて、IT色の強い女子としての視点でコメントしようと思います。
まだ発売したての本なので、引用はほんの少しにしておきます。
<24ページ 20代=デジタル・ネイティブの骨盤が変わった より>
整体の視点から見れば、情報は頭だけで処理するのではなく、身体で処理するものである。
ヨガの場合でいうと、同じアーサナの説明でどうしてあんなにみんな、微妙に違う動きをするのか。そして、瞬時にどこかをひねったり息を殺してバランスをとったりしますよね。この本では、情報を受け止める身体についてこってりと書かれています。
<58ページ 2000年代以降、オタク・スタイルが一般化 より>
整体の現場から観察していると、オタクの一般化は「情報の洪水から身を守る手法の一般化」ととらえることができる。
共通言語を限定することで、ラクになれます。細分化している趣味趣向のなかで「わたしはこの言語を選んでいるのです」ということを表すのに「ヨガオタクなもんで」というのは非常にラクなんです、はい。
<101ページ 「女子会」は休む暇のない現代の生理休暇 より>
本来、女性はあらためて女子会などという言葉を使うまでもなく、そういうことをやってきたはずだ。
これにはもうひとつの側面があって「今日はどこどこで女子会〜」というのは、「わたしはこのように、デートをする相手がいないんですよ。どうぞお誘いください。まあ誘われなくてもこのように淋しくはないのですがね」と言えない女子がやる「いじらしいアピール」という機能でもあったりすると思うんですよね。
<122ページ 身体にとって近代化とは何だったのか より>
経済も、相変わらずイノベーションとか労働生産性の向上とかいわれているが、このことが果たして進歩なのかどうかも判断できなくなっている。
養老孟司さんが「まともな人」という本の「鉛筆を拾ってはいけない」という章のなかで、世の中が便利になって必要な仕事が減ってくると、仕事を無理やりに作ることで世の中を回していくことになる。こういう状況を思うと、インドのカーストの意味も違ったものに見えてくる。という趣旨のことを言っていて、それを「生産性の向上に賭けてきた社会がそれを理解する時期」と表現していたのだけど、この部分はまさにそれをさしているのだと思う。
<154ページ 「ぼくって◯◯じゃないですか」という理由 より>
「アメトーーク」のようなお笑いバラエティ番組を見ると、たとえば「家電芸人」といわれる芸人が出てきて家電を素材にしゃべるのだが、そこで重要なのは、その情報そのものが面白いことではない。(中略)トークについてのトーク=メタ・トークである。
相方への愛情を語るときに僕の語ることに突っ込む司会者のコメントについて相方自身が語ること。という状況とかね。ややこしいけど、こういう空気でゆるめ合って場が形成されていく笑いって、たしかに今を表してるなぁ。
<228ページ 骨盤の転換期にはサインが現れる より>
人それぞれに特定のサインがある。オタク用語でいう「フラグが立つ」というやつだ。
オタク認定された(笑)。
<231ページ 骨盤の転換期にはサインが現れる より>
恋愛でも仕事でも、あまりにも興奮度が高い出会いは、ひどい結末を迎えてしいまうことが多い。身体がすでに興奮しているために、さらに興奮するようなことばかり思いつき、急上昇しすぎて反動で急降下する。そして徒労感や孤独感が残る。
浅香唯の名曲「セシル」を思わず脳内再生。
いまの時点では、基本的に都会の若者の現状と思って読んだほうがいい本だと思います。取材対象も都心の人みたいです。わたしの身近なお友達の例では、地方へ行くとまた違うおおらかさや、逆にもっとリアルとのブレンドが複雑な面があるみたい。mixiに書いたことを近所の人から聞いたとボソッと親に言われたとか、そいういうほのぼのと疲れる話を聞いたことがある。
20代とか30代とか中年以上というくくりで書かれているのですが、それはもうどこかを軸にしなければいけないわけで、当然デジタル・リテラシーの違いはあるのだけど、いちいちそこに正しいとか正しくないとか言う必要はないです。本題はそこではないから。
わたしの日常は、仕事仲間は100%の人がスマートフォンを使っていて、ヨガのお友達はまだ8割がガラケーで、インターネットを利用しないスリランカのおじさまとは文通をし、10年前にインターネットのインスタント・メッセンジャー(当時はICQ全盛期)で知り合ってホームステイをして以来交流のあるインドの家族とは、いまはFacebookで近況を報告しあっています。
デジタルな状況や度合いはさまざまなのだけど、波や風や引力のようなものは、身体しか頼れるものさしがない。もっと限定すると、呼吸は気持ちにすぐにひっぱられるから、もはや地に着いた坐骨か足の裏の感覚しか信用していないくらいです。
本屋さんへ行くとおもしろい身体論の本がたくさん出ていてキョロキョロしちゃうのだけど、ここまでの鋭さの本は先々すぐには出てこないと思います。
ビートルズやロックなことが書いてある、こっちもおもしろいよ!