うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

チベット仏教の真実 「禅定」の章

先週、野口法蔵さんの『チベット仏教の真実 ―「五体投地」四百万回満行の軌跡』を紹介しましたが、今日はそのときに書かなかった「禅定」の章にフォーカスをあてて書きます。
ただでさえ感じるところの多い旅行・修行記のなかにある「禅定」の章では、さまざまな観想法が紹介されています。うちこはこの本を読んでから「五体投地」をいろいろなサイトや動画で見て、びっくりしました。「チャトランガでスライディングする太陽礼拝」といった動きで、老人も幼い子供もこれをひらすらやる。
その様子を紹介している興味深いサイトが

 『風の馬』チベット連載第9回 モーリー・ロバートソンの『チベット・リアルタイム vol.4』【動画付き】

というもの。今日の写真そのサイトで掲載されていたものです。
このなかにある

幼い子供も親兄弟の見よう見まねで祈る。額を地面にこすり続けるうちに皮膚が堅い疣(いぼ)になって盛り上がった男もいた。この信仰に対する決意はもはや近代社会の意識で語れる領域にはない。迷信に縛られているのではなく、むしろ近代文明を超えた技能がそこにある。チベット密教を一人一人のチベット人が身をもって支え、存続させているのだ。この理不尽なまでのパワーを中国政府は恐れている。

とあるのですが、動画や写真を見ると、ものすごく自然。
今日の紹介部分で野口法蔵さんは「地に額を着けることを繰り返すと、人は柔順になれる。」と書かれています。厳しい社会、厳しい自然。こういう全身の祈り、その伝播の継続の根底にあるパワーは恐ろしいというよりも、圧倒的。


別の話題が長くなってしまいましたが、今日は「禅定」の章からいくつかご紹介します。


<161ページ>
 東洋では、禅定は三つに分けられる。その三つとは、ビパーサナ(観法)、ドヤーナ(禅)、サマーディ(三昧)である。順に大まかな修し方を記す。
「ビパーサナ(観法)とは、瞑想中に一つのことを想像するのである。これには、死を想像する「死観」、身体の不浄を想像する「身不浄観」、食物の変化の様子を想像する「食不浄観」。皮膚から骸骨へと想像する「白骨観」などがあり、主にタイ、ビルマスリランカなどの仏教国で盛んである。まず、坐して落ち着くようなら、すぐ修し得る。
 しかし、震えがきたり、苦しく感じた場合は、前もって「数息観」を行なう。

「身不浄観」は、野口さんボキャブラリで「糞袋観」にしたほうがわかりやすい。
せっかちなうちこは「数息観」が苦手なんですが、カパーラ・バーティーを先導するような早いカウントでも、同じリズムで数を唱えるのは呼吸のリズムが落ち着いて、脳波も落ち着く感じがします。

<166ページ>
「ドヤーナ」には、坐禅、臥禅、歩禅の三つがある。「坐禅」には、止観、只観、公案などがあるが、要は頭のなかを空にすることである。「臥禅」とは、ブッダの涅槃姿のごとく右脇腹を下にして両足を重ね、右手を頭に添えて左手は腰に載せ、思案する。
(中略)
「歩禅」とは、そぞろ歩き、経行と言われ、カマターン(繰り返し)と呼ばれており、ブッダの夜の日課であった。

最近、ブッダもうちこみたいに肝臓が悪かったのかなぁ、なんて思ったりします。(右を下にするとラクなので。参考

<167ページ>
「サマーディ(三昧)」は、百八三昧とも三千三三昧とも言われ、インドの瞑想法の大半を占める。「サマーディ」とは一つの行動、念想を持続することによって、気を落ち着かせるものであり、宗教的体験は、これによって生まれることが多い。

ここは、まとまり的に抜かないほうがよいかなと思ったメモ。(自分を主語にしてコメントする単語ではないと思っているので)

<167ページ>
「観自在三昧」は、肉体と精神の他に、もう一つの自分を作る瞑想法である。
 二つの道があり、どちらかを選ばなければならず、道を誤れば致命的になる。そのようなとき、一つの道を決めるために行なうのがこの瞑想法であり、百パーセント正しい道が出てくるのだ。
 方法は、まず瞑想する。一本の道を歩いてきて、二股の分かれ道に会う。果ては知れず、誤れば死ぬかもしれぬ。迷い、そこに坐すと、後からもう一人の自分がやってきて声をかける。
「何を坐していのか」
「右か左か決めかねている」
「どこに行くのか、目的は何か、万が一、どんなことが起こったら後悔するのか、お前にとって不幸とは何か」
「……」
 答えを聞いて、最後にもう一人の私は言ってのける。
「何を迷っているんだ、左に決まっているじゃないか。お前の目的はそれで、たとえ失敗してもそうなるだろう」
 高々と笑って、さっさと左の道を行ってしまう。これは、自分自身の肉体をも、他人の屍のように跨いで行けるような、まったく別人を創らなければならない。これによって死に至るとも、心に後悔が生じないゆえ、百パーセント正しいと言える。

途中まで読んで、「別の俺が左へ行ったから、右へ行けるのか」と思いきや、そういう解釈ではなくてびっくり。

<168ページ>
「投地三昧」はチベット人の主力な瞑想法であり、生活法でもある。
 五体、つまり体全体を、地に投じる。頭の上、顎の上、胸元へと合掌し、両膝両手を地に着け、体を投じ、額を地に着けて伏すう。伏しては立ち、また地に伏すというのを繰り返す。
(中略)
地に額を着けることを繰り返すと、人は柔順になれる。そして、見えないものが、観えてくるようになる。

見てびっくりです。

<170ページ>
「念仏三昧」とは、仏を念じることである。
 鈴木正三禅師がやったように、仏像と対坐し、自分自身がその仏となる。ヒンドゥー教チベット仏教の僧侶の瞑想法でもある。灯火一本で仏像と対坐する。左右に揺れながら口ずさむ。
「観世音 観世音 観世音 タサヤ タサヤ タサヤ、ヤマンタカ ヤマンタカ ヤマンタカ」
 そのうち仏像が動き出す。苦しみのある者には、観音が微笑む。欲望のある者には、忿努の像の火炎が燃え上がる。じっと慈悲の顔を見ていると、自分の顔もそうなっていく。タンカ(仏画)のなかへも入ることができる。自分が仏か、仏が自分かのようになる。こうなると、偶像がどうとか言うことはできなくなる。

「入我我入」のよい説明。

<171ページ>
真言三昧」、ある語と毎日、唱え続けることをいう。
(中略)
 これは、語の意味よりも、実際に唱え続けることに効果があり、南無阿弥陀仏でも、南無妙法蓮華経でも、南無大師遍上金剛でもよい。チベットではオンマニベメフン、タイではナモアラハン、ヒンドゥー教はハリオーム、イスラム教はアッラーである。宗教経験のある人にはこの効果がわかるが、その語の意味をとって攻撃するのは間違いである。

うちこは基本的に「南無大師遍上金剛」がしっくり。西遊記真言も好きです。


写経を題材に書いたことがありますが、ひたすらくりかえす動作には、無我になれる仕掛けがあるのだと思います。単調にくりかえすからこそ、呼吸と仲良くなってくる。心身一如 になってくる。伸びたり片脚で立ったりするだけが「動禅」ってわけじゃない。
巷にはヨガがいっぱいです。

チベット仏教の真実―「五体投地」四百万回満行の軌跡
野口 法蔵
佼成出版社
売り上げランキング: 124664
おすすめ度の平均: 5.0
5 チベット仏教僧となる