リーダーとはかくあるべき、という自己啓発本の仲間に入るタイプの本です。
タイトルで空海さんが打ち出されていますが、事実上ブッダよねみたいな内容が多いです。
なので、ものすごく共感しながら読んだかというとそうではないのですが、それはわたしが空海さんについてヨギとして影響を受けている前提のことで、それを抜きにすれば、純粋に「一般的なマネジメント論の本」としてはこのようなまとまりかたがよいのだと思います。
ちょっと書きかけた感じになるので、「わたしが空海さんを師と仰ぐ理由」をいくつか書き出してみます。
- ヨーガを日本に伝えた人であること
- 「実践哲学」をつらぬいたこと
- 「ことば」のプロであったこと
- さらにはそれを「筆」で表現するものとして、すごすぎたこと。うちこはこれをアーサナとみなす。
- アーサナやマントラやお祈りだけでなく、カルマヨギであったこと
- そのカルマヨギの幅が土木業にまで及ぶ「なんでも受けます」というスタンスであったこと
この本では、それよりも「仏教の教え」全般が題材になっています。いくつか、紹介します。
<2ページ この本のあらすじ より>
仏教の修行もビジネスも、同じ人間の行いである。
世の中に会社ができる何千年も前から、仏教者達は、「幸せなお金儲け」を追求してきた。形のある財産に執着するのではなく、「善い行ない」を積み重ねることで、はじめてまっとうなお金儲けが成立することを示してきた。
この叡知を生かさない手はない。
こういうコンセプトの本です。
<41ページ 商売は戦争ではなく「菩薩行」だ より>
戦争は、敵を攻撃して相手を殺し、建物を破壊してその財産を奪う。
商売は、お客がより幸せな生活を送るための材料を作って、それを知らせる。そして、お客が納得すれば購入して便利になる。
商売と戦争はこんなに違うのに、どうして、「商戦」などといって戦争になぞらえるのであろうか。
みんな本当によく「戦い」に喩えますね。うちこは「三国志よりも、ともに歩む西遊記のほうがいい」と思っています(参考日記)。
<63ページ 人間を毒する「三つの煩悩」とは何か より>
だいたい、貪欲や愚痴の心で世の中を生きているから、他の人が困ることが分からないのである。それでいて愚痴をいうから、救われない。
「痴」はやまいだれに知と書く。つまり、知恵が病気なのである。ついでに述べるが、愚痴は梵語で「モーハ」という。それがなまって馬鹿になったのだそうだ。
モーハシャンティエー。無知という毒、のところですね。
<74ページ 「我利我利」に成功の道はないと心得よ より>
釈迦も、
「これは俺の財産だ、俺の土地だ、家だ、息子だ、娘だ、と思いこんでいる。そして、愚かにも、それを守ることに苦しんでいる。自分の身体でさえ自分の思うようにならないのに、財産や子どもがどうして自分のものであろうか」と、いわれている。この世の中のものは、何一つ自分のものではない。ただ、自分は荷物の一時預かり所の職員のようなもので、天命というお客が取りにきたら、いつでも渡さなければならないのだ。
ラーマクリシュナ師も同じことをおっしゃってました(参考日記。該当箇所は75ページ引用箇所)。
<89ページ 「道理」とは何だろうか より>
植物や動物や石が持っている意識は、人間も持っている。しかしこれは、われわれが普段使っている意識のこおではない。潜在意識のことである。
人間の意識には、感情がともなう。だから、怒ったり、喜んだり、苦しんだり、悲しんだりしたあげく、人を中傷したり陥れたりする。
これは自意識とよぶものである。
植物の意識や人間の潜在意識には、人を傷つけるような感情がともなわない。したって、これを「仏心」と名づけるのである。
(中略)
心に、潜在意識という仏心を持っていて、その仏心を大宇宙という放送局が発信する真理という周波数に合わせるのである。そうすれば、道理という天道の道すじがはっきり見えてくる。
「大宇宙という放送局が発信する真理という周波数に合わせる」。ニュータイプですねぇ。
<143ページ ことばの重要さと良寛さんの戒め より>
良寛さんが、「ことばについての戒め」ということばを残している。とても大事なことだから紹介しよう。一、ことばの多いこと。
二、はなしの長いこと。
三、てがらばなしをすること。
四、自分の生まれや身分の高いことを人にいうこと。
五、人がものをいいきらないうちに、ものをいうこと。
六、たやすく約束をすること。
七、人に物をやる前に、なになにをやろうということ。
八、物をやったことを他の人にいうこと。
九、よく知らないことを人に教えること。
十、悲しんでいる人のそばで、歌をうたうこと。
十一、人がかくしていることをバラすこと。
十二、目下の人を軽んじること。
十三、部下に荒いことばを使うこと。
十四、心にもないことをいうこと。などをしてはいけない、ときつく戒めている。
「自分の生まれや身分の高いことを人にいうこと」「悲しんでいる人のそばで、歌をうたうこと」は、ぜひ良寛師匠からインド人を戒めていただきたいところ。歌うどころか、はげしく踊るしなぁ……あいつら。
<167ページ 「座行」のすすめ より>
日本では、「ヨーガ」が有名になり、とくに美容と健康に良いと女性に好評である。このヨーガは瑜伽といって、三千年も昔に仏教が生まれる以前のインドで、バラモン教の苦行僧が盛んに行っていた。これが、仏教にとり入れられて、中国に渡ってからは「禅」となった。「だるま大師」がこれを広めたという。
日本の禅は、鎌倉時代に曹洞宗の開祖となった道元禅師が、宋で学んできてこれを伝えた。
ところが、それより四百年も早く、弘法大師が唐から密教とともに持って帰ったのが「密教禅」とよばれる「座行」である。この座行は、「観法」ともいい、古くから真言行者によって伝えられてきたが、霊験あらたかな秘密の行のために、一般には知られなかった。
しかし、ヨーガにも、禅にも、密教禅にも、共通していえることは、「心静かな瞑想」である。
瞑想といっても、曹洞宗では「只管打座」といって、何も考えずに、ただひたすら座り、無心、無我の境地になることをすすめる。
臨済(禅宗の一つ)禅では、「公案」といって、一つのことばを問題にして心を集中させることを教える。
密教禅の「観法」は、「数息観」、「月輪観」、「阿字観」、という順序を経て、だんだんと深く入っていく。
空海さんに縁のあるところでうちこ的に「ええ、はい」と思ったのはここだけかも。
<201ページ 「一即一切」で見抜かれると心得よ より>
「病は気から」とは今でもいうが、中国の後漢のころ、「医者は意者でなければあらぬ」といわれていたという。医者は、一目で病人の気持ちが分からなければいけない、という意味であろう。
そのころの診断学では、
「脈をとって病名がわかる人を、功という」
「病人の家を訪ねただけで病名が分かる人を、工という(家の中の臭いでわかったのであろう)」
「病人の声を聞いて病名がわかる人を、聖という」
「病人の顔をみて病名がわかる人を、神という」
といったらしい。
野口先生や沖先生は、神だねぇ(笑)
<226ページ 相手に合わせた考え方「方正利便」 より>
あるとき、釈迦が説法をしているところへ、外道(他の邪教を信ずる者)がやってきて、さんざん釈迦の悪口をいった。終わりまで黙って聞いていた釈迦は最後に、
「あなたは、自分がきらいな品物をプレゼントされた場合、それを受け取るかね」
「いいえ、返します」
「では、せっかく長い時間聞かせてくれた悪口だが、私はいらないから持って帰ってくれないか」といった。
外道は自分の非をさとり、間もなく釈迦の弟子になった。
だから空海さん関係ないじゃん! w
このほかに、ひとつ「漢字の話」でほっこりしたところがあります。
ふたり坐っている象形文字がもとなのだけど、雨が降ったらかわいそうだから、屋根をつけてたんだって。
あたたかくって、かわいくって、すてきなエピソード。
空海さんには並々ならぬラブがあるわたしには、これでは少々物足りない。