うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

生きる秘訣(第一部 / 働きの道)ヴィヴェーカーナンダ / 斎藤しょう 訳

図書館の保存庫で借りてきました。昭和54年の本です。訳者さんの「しょう」は左が「日」で右が「向」という漢字で「しょう」です。(旧字なのかな、化けてしまいます)
そして今日の内容には岡倉天心さんも登場します。「茶の本」で天心さんに親しまれたかたも必見です。

この本は「第一部 カルマ・ヨーガ(働きの道)」「第二部 ジュナーナ・ヨーガ(悟りの道)」の大きく二つの章からなるのですが、読んでみたら第一部のほうは以前ここでも紹介した「カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ」と同じ内容でした。元になった内容なので、注釈とか日本語とかが、昭和。
第二部のほうは、現在販売されている「ギャーナ・ヨーガ―知識のヨーガ」の元になったもの(両部とも、欧米での講話集)かと思います。

今日は第一部の「第一部 カルマ・ヨーガ(働きの道)」をご紹介します。「カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ」とほとんど同じ内容なのですが、こう、洗練されたまとめになる前の要素が残っていたり、注釈がすごく原始的に添えてあったりで、またちょっと違った味わい。そうすると、心にメモしたくなるところも少し違ってくる。編纂というのは「料理法」みたいなところがありますね。


そして今日はその前に、この本の紹介要素として、まずは以下の岡倉天心さんとのかかわりについて、記述を紹介しておきたいと思います。岡倉天心さんのWikipediaには、「明治34 - 35年(1901 - 1902年)、インド訪遊。ヴィヴェカーナンダ・タゴール等と交流する。タゴール家の縁者プリヤムヴァダ・デーヴィと恋愛関係となる。この頃、『東洋の理想』・『東洋の覚醒』執筆。」くらいしか書いてないんですもの。

<285ページ スワミ・ヴィヴェーカーナンダの略伝 より>
 ヴィヴェーカーナンダが1897年帰国してコロンボに上陸したときには凱旋将軍のように迎えられた。その後、インドの各地で講演し、宗教と祖国愛のために青年の奮起を促した。
 1899年、カルカッタに近いベルルに僧院を設け、ラーマクリシュナ教団の本部とし宗教運動を組織した。同年六月再び外遊してアメリカと英国で活躍し、翌1900年帰国した。
 1901年、インドを訪れた岡倉天心は、当時世界的名声を博していたヴィヴェカーナンダに面会して深く感動し、日本へ来るように勧めた。ヴィヴェカーナンダも心から天心を敬愛し、この招待を承諾したが、健康状態が思わしからず、遂にその約を果たすことができなかった。彼は天心とともにブダガヤの釈迦の遺跡に詣で、そこから一人ベナレスに赴き、同地の熱心な青年たちに向って、病める者、無力な者に奉仕せよと教えた。その結果、ラーマクリシュナ教団の後援のもとにベナレス奉仕館が出来た。

天心さん39歳、ヴィヴェーカーナンダさん38歳の頃のログです。同世代で、熱い交流だったんだろうなぁ。



そして、岡倉天心さんのWikipediaタゴールさんが登場していたので、その流れで、この本の裏表紙にある推薦文も紹介しておきましょう。

ロマン・ロラン
ヴィヴェーカーナンダの言葉は偉大な音楽だ。書物の各ページをとおしてまき散らされた彼の格言のかずかずは、わたしのからだに電気のショックのようなスリルを受けることなしには、さわることができない。


タゴール
ヴィヴェーカーナンダには、すべてが積極的であって、消極的なものは少しもない。


ガンジー
ヴィヴェーカーナンダの著述は、だれかの紹介を必要としない。それ自身が抵抗しがたく訴えてくる。


●ネール
過去に根ざし、インドの伝統にたいする誇りに満ちていて、しかも生の問題をあつかうやりかたは近代的であった。

うちこはこのなかでも、ネールさん(ネール首相)の「生の問題をあつかうやりかたは近代的」という言葉に激しく共感です。以下の紹介に登場する比喩力は、インド哲学家全般に言える傾向のうちに入るものですが、今読んでもまったく状況が色あせずに当てはめられる記述は本当にすごいと思います。そして、今でいうと「クール」なのかな、とにかく「だって、そうだもの」というスタンスが、いい。


編纂を繰り返して洗練されていくなかでも昔のままのこの本は、かえって新しく出版されたものに感じる「これはカーストのことを言っている?」という疑問がわかない。これはなんでかな。読んだのが二度目だったからかもしれません。


ではでは、最新版も紹介したのにまだ足りなかったカルマ・ヨーガの道でメモした箇所、ご紹介します。「サーンキャ哲学」が「サンクヤ哲学」だったり、昭和ならではの味わいも同時にお楽しみください。

<17ページ 人はそれぞれの場所において偉大である より>
 サンクヤ哲学に従えば、自然界はサンスクリットでサットヴァ(Sattva)とラジャス(Rajas)とタマス(Tamas)という三つの力で構成されている。これが物理的世界に表明されると、われわれが平衡、活動及び惰性と呼ぶものである。タマスは暗黒または非活動という特徴をもっている。ラジャスは引力または斥力として言いあらわされる活動性である。そしてサットヴァは両者の平衡状態である。

【補足注釈】サンクヤ哲学(Sankhya philosophy) インド六派哲学の一つ。数論派と訳される。ヴィヴェーカーナンダは哲学の源泉をここに求め、その欠点を修正したものがヴェーダーンタ哲学だとしている。(訳者注)

アーユルヴェーダでおなじみの三要素が出てきますが、ヴェーダーンタ哲学とサーンキャ哲学を学ぶ上で「ヴィヴェーカーナンダは哲学の源泉をここに求め、その欠点を修正したものがヴェーダーンタ哲学だとしている。」というところは、非常に助けになる注記です。

<23ページ 人はそれぞれの場所において偉大である より>
 不活撥ということは何としても避けねばならぬ。活動は常に抵抗を意味する。精神的だろうと、物質的だろうと、あらゆる悪に抵抗せよ。
そしてあなたが抵抗に成功したときに、平静が来るであろう。「何人をも憎むな、悪に抵抗するな」と説くことは極めてやさしい。しかし、その種の事柄が実践上一般に何を意味するかをわれわれは知っている。社会の目がわれわれに向けられたとき、無抵抗のお芝居をやってみせるのはいい。しかし、われわれの心の中では、それはいつでも害悪である。無抵抗の平和が少しも存在していないことを感ずる。

活発、積極性と悪への抵抗をこのように結びつけて書かれるのがヴィヴェーカーナンダ師の大きな特徴のひとつ。中村天風さんよりもさらに強いきっぱり語調です。あと、若くて長老キャラな年齢ではないというのもあったかもしれないけど、本当にしっかり説明してくれる。

<49ページ 働きの秘密 より>
われわれが執着する何らかの行動の印象は残存する。私が昼間、数百人の人物に逢うとする。そのなかで私が愛する一人の人物に逢う。それから夜になって自分ひとりになったとき、私が逢ったすべての顔を思い浮かべようと試みる。ところが、たった一つの顔だけが心のまえに現れる。その顔は、恐らくたった一分間だけ逢ったのだが、私の愛する顔だった。ほかの顔はすべて消えてしまった。この特別な人物に対する私の執着は、他のすべての顔よりも深い印象を私の心に惹き起したのだ。

「よい印象を刻み込むカルマ」についての説明を前回の紹介で書いたと思うのですが、ここは抜粋しなかったんですね。でも、あらためて読むと、ここもとってもよい。

<46ページ 働きの秘密 より>
この働きへ「執着しないこと」が何を意味するか、もっと判りやすい説明を試みよう。
『ギーター』に見えている一つの中心理念はこうである。「絶えず働け。しかしそれに終着してはいけない。」「サムスカーラ」という言葉があるが、これは内面的傾向と訳せば甚だ近い。心を湖水にたとえるならば、心に起るあらゆる渦、あらゆる小波(さざなみ)は、たとえ鎮まったとしてもお、決して全然消え失せてしまうということはない。そこに一つの痕跡を残し、その波が将来再び起ってくる可能性をとどめる。この痕跡は、波が再現する可能性と合わせて、サムスカーラ(Samskara)と呼ばれるものである。われわれがなすあらゆる働き、身体のあらゆる運動。われわれがおもい浮べるあらゆる思想は、心の素材にこのような印象を残す。このような印象が表面上明白ではない場合でも、表面下で、潜在意識として働くだけの充分の強さをもっている。われわれが各瞬間ごとに何であるかは、心にきざまれる印象の総計によって決定される。ちょうどこの瞬間に私があるところのものは、私の過去の生活のすべての印象を総計したものの結果である。これは実際に、性格の意味するものでもある。各人の性格は、これらの印象の総計によって決定される。もし善い印象が支配すれば、その性格は善くなる。もし悪い印象が支配すれば、その性格は悪くなる。

この「働きの秘密」の章の記述はどれもよいのですが、ヨガの教えによく出てくる「サムスカーラ(Samskara)」の説明として、とてもやさしい、よい内容。

<49ページ 働きの秘密 より>
われわれが執着する何らかの行動の印象は残存する。私が昼間、数百人の人物に逢うとする。そのなかで私が愛する一人の人物に逢う。それから夜になって自分ひとりになったとき、私が逢ったすべての顔を思い浮かべようと試みる。ところが、たった一つの顔だけが心のまえに現れる。その顔は、恐らくたった一分間だけ逢ったのだが、私の愛する顔だった。ほかの顔はすべて消えてしまった。この特別な人物に対する私の執着は、他のすべての顔よりも深い印象を私の心に惹き起したのだ。

ちょっとした恋のような感情から、みんな学んでいるはずなんだよね。依存ではない恋ね。

<50ページ 働きの秘密 より>
 それゆえ、「執着」はするな。物事をして働かしめよ。脳の中枢を働かしめよ。絶えず働け。しかし浪の渦をして心を征服させるな。あなたがこの国で、まるで異国人であるかのように逗留客であるかのように働け。絶えず働け。しかし、あなた自身を縛ってはならない。束縛は恐ろしい。
この世はわれわれの住所(すみか)ではない。われわれが通過してゆく多くのステージの、ただ一つに過ぎない。サンクヤ派の偉大なる格言を思い出しなさい。「全自然界は魂のためにある。魂が自然のためにあるのではない。」自然界の存在理由はとりもなおさず魂の教育のためである。それ以外の意味はない。魂は知恵を通して自己を自由にせねばならぬからこそ自然の存在がある。もし、そのことを常に念頭に置くならば、われわれが自然に執着するということは決してないであろう。自然とは、われわれがそこで読みとる本であるということ、そしてわれわれが必要とする知恵を手に入れたとき、その本はもはやわれわれにとって価値がないということを知るであろう。(中略)われわれは自然を自分自身と考えつつ、それに執着しつつある。この執着が生ずるや否や、魂の上に深い印象が生じ、それがわれわれを縛りあげて、自由からでなく、奴隷のようにわれわれを働かしめる。

このへんの記述には、「エコという行いのビジネス」について考えさせられる。ビジネスも一面ではカルマ・ヨーガなのだけど。

<75ページ われわれは自分自身を助けているのであって世間を助けているのではない より>
あらゆる宗教には三つの部分がある。哲学と神話と儀式である。哲学は勿論、あらゆる宗教のエッセンスである。神話は多かれ少なかれ説話的な偉人の伝記や不思議な事柄の物語や寓話などの手段によって、それを説明し解説する。儀式はその哲学にもっと具体的な形式を与えて誰にでもそれをつかめるようにする。儀式は実に具体化された哲学である。この儀式がカルマである。

沖先生が実践する哲学と言われる「実践」のところを、ヴィヴェーカーナンダ師は「儀式」とおっしゃいます。インド人だと、すんなりだね。逆に、日本人としての沖先生の日本語変換力もまた素晴らしいものであるなぁ、と思います。

<79ページ われわれは自分自身を助けているのであって世間を助けているのではない より>
一人の女が泣いて、みじめな気持になっている。そこへ別の女がやって来て、やさしい言葉をかける。今まで泣いていた女の打ちひしがれていた気分がすぐさま伸びのびとなる。彼女の悲しみは消えて、もう微笑み始める。言葉の力を思え! 言葉というものは高級な哲学においても日常生活におけると同様に偉大な威力である。われわれは深い思想もなく研究もせず、昼も夜もこの威力を扱っている。この威力の性質を知って、これを旨くつかいこなすことが、またカルマ・ヨーガの一部分である。

こういう、ちょっとした例えも出てきます。「この威力の性質を知って、これを旨くつかいこなすことが、またカルマ・ヨーガの一部分である」といわれると、ブログ執筆もまたヨーガであります。

<95ページ 無執着は全面的な自己脱却である より>
他のもののためにつくした働きの主な結果はわれわれ自身を浄化することである。他人に善をするための常住不断の努力という手段によってわれわれは自分自身を忘れようと試みているのだ。この自己忘却ということがわれわれが人生において学ぶべきたった一つの大なる教訓である。人間は自分を幸福になし得ると、愚かにも考えている。

「人間は自分を幸福になし得ると、愚かにも考えている」ここ、メモ。

<109ページ 無執着は全面的な自己脱却である より>
 われわれの種々のヨーガは、互に衝突するものではない。それぞれ、われわれを同じ目標に導いて、われわれを完全にしてくれる。ただし、いずれも克苦精励して実践しなければならない。秘密の全貌は実践することにある。(中略)あらゆる物事についての説明は結局あなた自身の中にある。人間は他人から教えられるということはない。われわれは誰でも自分自身に教えなければならない。外部にいる教師は内部にいる教師を目醒まして物事を理解するように働きかけさせるための暗示を与えるに過ぎない。(中略)最初は感じである。それから意志となる。その意志の作用から働きのための恐るべき精力が湧いてくる。それがあらゆる血脈と神経と筋肉を通じて流れ、遂にあなたの全身が非利己的な働きのヨーガ器械に変えられる。

お相撲の昇進コメントのような「克苦精励」という訳がいいなぁと。あと、「秘密の全貌は実践することにある」この言い回しがたまりません。
「最初は感じである。それから意志となる。その意志の作用から働きのための恐るべき精力が湧いてくる。それがあらゆる血脈と神経と筋肉を通じて流れ、遂にあなたの全身が非利己的な働きのヨーガ器械に変えられる。」というのも、いい。アーサナを続けていく中で「意思」の力に気づくか気づかないかは、大きな個人差の要素だと思う。

<113ページ 自由 より>
この宇宙は無限の存在の一部に過ぎないもので、特別な鋳型に嵌めこまれて空間と時間と因果作用とで出来あがっている。そこで法則というものは、この条件づけられた宇宙のなかでのみ可能だというのが必然的な帰結である。(中略)そこで、自由意志というようなものはあり得ないことが直ぐ判る。そういう言葉そのものが形容矛盾である。なぜなら、意志はわれわれの知っているものである。われわれのしている一切のものはわれわれの宇宙のなかにある。(中略)
 問題は、この宇宙が何から生じたか、何に定着し、何に帰ってゆくかについて提出されている。その解答は次のとおりである、この宇宙は自由から生じた。束縛に定着し、再び自由に帰ってゆく。

ヴィヴェーカーナンダ師の語る宇宙。「意志はわれわれの知っているものである」という語りも、このかたの特徴的な言い回し。実践第一、からなるポリシーも好きです。

<121ページ 自由 より>
「私と私のもの」を念じるチッタ(意識)の波の一つ一つが直ちにわれわれのまわりに鎖を巻いて、われわれを奴隷化する。われわが「私が」や「私のもの」を余計言えば言うほど、それだけ奴隷化が進み、それだけ不幸が増してくる。それゆえ、カルマ・ヨーガは、世界におけるすべての絵画の美しさを享楽するのはよいが、しかしそれらのいずれにも自分自身を同一視しないようにと忠告している。(中略)だが、傍観者として立っているかぎり、われわれは自由である。この身体は絵や壁と何らの相違はなく、自由なものではない。何故われわれは身体にそんなに執着しなければならないのか。ある人が絵をかくとすれば、絵をかいて所有しつづけるだけだ。「私がそれを所有せねばならぬ」などと利己心の触覚を突き出すことはない。そんなものを突き出したら最後、不幸が始まるだろう。
 そこでカルマ・ヨーガは言う。まずこんな利己心の触覚を出す傾向を打ち破れ! あなたがそれを抑制する力をもったとき、それを閉じこめておけ。心が利己の波に巻きこまれるのを許すな。そうすれば、あなたは世間に出て行って出来るかぎり働くがよい。どこへでも立ち交われ。あなたの好むところへ行け。あなたは決して悪に汚されることはないだろう。水に浮ぶ蓮の葉がある。水はそれに触れることも付着することもできない。これと同じあんばいで、あなたは世界においてあるだろう。これがヴァイラーギャ(Vairagya)冷静または無執着と呼ばれる。

「責任を持って傍観し、行動しなさい」というと矛盾的な文章かもしれないけど、そうじゃないのよ。というのを「傍観者として立っているかぎり、われわれは自由である」「心が利己の波に巻きこまれるのを許すな」「どこへでも立ち交われ」の、流れでぐぐっと迫る。そして最後のヴァイラーギャ(Vairagya)の説明に使われる「水に浮ぶ蓮の葉」の例えが秀逸。


ヴィヴェーカーナンダ師の教えの素晴らしさは、その「表現力」に負うところがとても大きいと思います。なにか感じていることを説明しようとするとき、こんなふうにはなかなか書けるものではありません。ものすごく感度の高いアンテナで日常に落とし込んでくれる。
そこが、いつまでも色あせない魅力であるし、いま書店に平積みされている「仕事術」よりもいっそう深いところにある動機づけとして、おそろしくスタンダード。
仕事仲間で、深い動機づけのところで共感する人におすすめしたいけれど、貸したい相手の持つ「宗教的」という概念の理解はやっぱり難しいところがあるのが今の日本社会。なんともむずがゆいのですが、ヴィヴェーカーナンダ師の本は、世で働く多くの人に読んでもらいたいな、と思います。
今回の本は入手困難なので、第一部と第二部が別々の本で読めるよ、という二冊にリンクしておきます。
(第二部では、ハタ・ヨーガに触れる記載も登場します。第二部はこちら

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