ヨーガを思想も含めて学ぶようになればなるほど、おもしろくなる封建制度的な師弟関係の話。
「師弟関係」は、昔は太かったのが段々薄くなって、でもすごく大事なんだよ。という理解がほとんどだと思うのですが、この「忠誠」ノリは、普通に古典を読むとヨーガ・スートラの時代にはそんなに色濃くないのに、ハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーあたりになると濃くなる。想像と逆なんです。昔のほうが、師弟関係を強調していない。
この点について、中村元先生がためになる解説をしてくださっていたので紹介します。
読んでいた本は「ヴェーダーンタ思想の展開」という歴史の本だったのですが、以下の『ブラフマ・スートラ』はヨーガ・スートラと時代が近く、『ヴェーダーンタ・サーラ』はハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーなどの弟子入り修行テキスト群と同時代なので、近いことが言えると思います。
<この先を理解するための前提整理>
- 『ブラフマ・スートラ』という、ヴェーダーンタの根本経典がある。5世紀頃の書。
- シャンカラは700年〜750年頃の人。ケララ出身。不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)の祖。『ブラフマ・スートラ注解』を書いた。
- 『ヴェーダーンタ・サーラ』は、15世紀頃の書。シャンカラ派のヴェーダーンタ哲学の入門書としてよく知られている。
- 著者はサダーナンダ(Sadananda)。1500年頃に生存。16世紀にはこの書に対する註釈が著わされている。
師弟関係が強調されるようになったのは、いつからでしょう。
<290ページ 第10章『ヴェーダーンタ・サーラ』の注釈と説明 内容解説 社会性 師弟関係 より>
『ヴェーダーンタ・サーラ』においては、絶対者ブラフマンに関する知識は必ず師から授かるべきものであると考えていた。すなわち、師から弟子に伝えられるものであり、各個人が独立な思索によって獲得することはできないと考えていた(Vsar.,32)。彼らのこういう態度は秘儀的性格を帯びている。
そうして、サダーナンダはこの書の帰敬偈において自分の師アドヴァヤーナンダ(Advayananda)に帰敬している。一般に、当時のヴェーダーンタ学者はみな自分の師に帰敬する韻文を各自の著作の劈頭にかかげている。しかし、シャンカラはこういうことをなさなかったし、また、スレーシヴァラ(Suresvara)も行なわなかったらしい。ゆえにシャンカラやスレーシヴァラの当時は諸学派の生成時代であり、混沌としていて、師弟関係が後世のように強調されなかったらしい。ところが後世になって、いわゆる封建制度を思わせるような固定的階位的な社会構成が確定するにつれて、それに対応して特定の個人としての師と固定的な人間結合の行動様式が確立したのであろう。
また、弟子入りする場合に、ウパニシャッド聖典によると「薪」を手にして行くのであるが、『ヴェーダーンタ・サーラ』によると「進物」を手にして行くとなっていて。註釈家は「師にとって好ましい贈物」をもって行くのだと解する(Vsar.,32諸註記参照)。このような変化が認められるのは、生活が向上したためなのであろうか、礼法が変化したためなのであろうか。
ところで、もちろんシャンカラも、ブラフマンに関する知識は自分自身で独自に得ることはできない、必ず師につかなければならない。と述べている場合がある。しかしそれは『ムンダカ・ウパニシャッド』において『それの知識を得るためには彼(学生)は薪を手にして、聖典に通暁しブラフマンに専念した師のもとに赴くべし』(Muns.UP.,1,2,12)という句を解釈する場合の一節であり、シャンカラがこの点をどれだけ重要視していたかは、なお問題である。
ともかく解脱はまったく各個人の問題でありながら、しかも師の教えによるのでなければ解脱は得られないと説くところに、ヴェーダーンタ学派の特殊な社会性が認められる。
「生活が向上したためなのであろうか、礼法が変化したためなのであろうか」。こんなところにお歳暮文化が! なんだか、きもちわるい(笑) ヴェーダーンタ学派の特殊な社会性と書いてあるけど、読みながらハタ・ヨーガの古典をすぐに連想しました。
<356ページ 同上章 「生前解脱」より>
(『ヴェーダーンタ・サーラ』当時のヴェーダーンタ学者たちは)
理論的には、「知」が積極的に行為をも支配するもの、すなわち、いったん知ったならば行為に実現されないではやまないものであると考えていたらしい。彼らは、浄土真宗で説くような、われわれの現実の行為と、道徳的理想とのあいだの間隔、矛盾について深く意識して考えてはいなかったのであろう。
ただし、インド一般の思想としては、むしろ、真理を覚った者はもはや善をなそうとも悪をなそう それにとらわれることがない、と説くのが普通である。
悟ったグルがお姉ちゃんはべらせるのはOKなのか?! の回答がここに! スーパーマリオの99人UPよりすごい裏技なんだなー。そして親鸞に惚れ直すわたし。
<81ページ 第4章 信の意義 シャンカラにおける信仰の意義 より>
シャンカラによると、信とは一般的にいうと当時のヒンドゥー社会において善であると承認されている行為(特に広義の祭祀)を実行するように人々を促す観念である。この見解は、シャンカラによると、他の学派の信仰についても適用される。たとえば、サーンキヤ学派の人々がサーンキヤ説をそのまま信奉していることが、sraddha と呼ばれている。
ところが後代の不二一元論派になると、信とは、聖典の文句に対する信頼であるのみならず、師のことばに対する信頼という意味が付け加わり、師に対する信が強調されるようになった。
不二一元論派というのは、かなり成熟しきったインド思想の中で出てきたヴェーダーンタ。近代ではびべたんが「なんかこのオッサン、いきなりしつこい……」と思いつつ、結局はラマクリ師匠に導かれてとんでもない大物になっちゃった、という事実の影響も大きいのかな。
師弟関係を強調するようになったのは、後世の話なんですね。
弟子になる人が増えて先生も増えて、マーケットの裾野が広がると「特別だということにする"関係の証明"」に需要が発生する。このからくりは弟子が増えるだけではそうはならなくて、ポイントは「先生も増えて」というところにあると思っています。よい女の子を揃えて同伴で稼ぎましょうというのは、利益確保の構造として磐石だもんな〜。
資本主義社会のなかではヨガも同じ観点で見てたほうが健全。深夜の通販で買った商品を、翌日「ものすごいものを買った」と言う人よりも、「いや〜、ついノせられちゃってさ。判断力が鈍る時間帯に、うまくあおるよね〜」って言ってる人のほうが確実に世の中が見えてるし、ヨギだなぁ、と思うのです。
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