ひょんなきっかけで出会った本。その場では読みきれなかったので、後日図書館で借りて読みました。著者の野口法蔵さんという人のことをご存知の方がどれくらいいらっしゃるのかわかりませんが、うちこはまったくその名も知りませんでした。これは、その野口氏のスリランカ、インド、ネパール、チベットでの修行エピソード。
現在は坐禅断食のすすめを行いながら、臨済宗妙心寺派僧をされているようなのですが、それまでの修行からチベットのラダックにて得度、ダライラマより院号弾処院寄与。という経歴のかたです。
ずばり
中村天風 沖正弘 野口法蔵
こんな並びがしっくりくる感じ。断食をすすめているから、ってことではなく。
うちこがどうしてそのように感じたかは、これからいつものように抜粋する部分を読んでいただければ、すぐにわかるかと思います。
そして後半には、「天才バカボン」「ミラレパさん」に関するお話も登場します。
わくわくというよりも、どきどきすると思います。
<11ページ プロローグ より>
チベットには「体の問題を解決するときには心を動かし、心の問題を解決するときには体を動かせ」という意味の諺があります。
名言すぎる諺。
<15ページ 自分のことは自分の体に訊くのが一番いい より>
呼吸法を学ぶために行ったスリランカでは密林の洞窟にこもり、ひと呼吸に一歩以上の速度では歩いてはならないという戒律を忠実に守りました。この戒律を守るためには、一五○メートルほどの道を歩くのに、小一時間もかけなければなりませんでした。
ものすごい経行(きんひん)。
<17ページ 自分にしかできない生き方があるはずだ! より>
社会があって人間が暮らすのではない。その時代の人間がどう生きるかによって社会は変わってくる。だから社会をよくしたかったら、まずなた自身がよくならなければならないのです。
自分が元気で幸せなら、社会がどうであれ、あなたは充実した人生が過ごせます。そういう人間が増えてくれば、自然に住みよい社会になっていきます。大切なことは、まず自分から始めることなのです。
それをしないで、「あれが悪い」「これがよくない」といってみても始まらない。極端な話、どんなに住み善い社会ができ上がっても、自分の考え方が間違っていれば、少しも幸せにはなれません。
マスコミが発達したことで、情報量が増えて、人々の目が社会に注がれることが多くなりました。これは基本的にはよいことですが、社会の動きにばかり目がいって、肝心の自分自身のことを忘れる傾向が出てきているのは問題です。
社会で起きていることは何でも知っているが、自分の体に起きていることには、とんと気づかない。今はこういう人が多いのではないでしょうか。社会に目を向けることも大切ですが、自分の体に目を向けることはもっと大切なことです。
現代に生きる人が語ってくれるこのような言葉に触れられる機会は、少ない。とても貴重だと思います。
<24ページ 地上一○センチから上と下ではクウキが違うより>
(本職の物乞いよりも、やけどの傷跡が残っている自分の方が多くの小銭を投げられた、という話から)
インドの人たちは、弱者を憐れむ慈悲の心をもっている。そのときは、たまたま隣にいる物乞いより私のほうが、より憐れに見えたのでしょう。
だが、一方でインド人は、一筋縄ではいかないしたたかさを兼ね備えています。
今述べたことと矛盾するようですが、場合によっては、健常な物乞いのほうが、障害を抱えた物乞いより、もらいの多いことがある。そういうとき、恵む側の人たちは、物乞いの人相を微妙に読みとっているのです。
一瞬でカーストを読み取る習慣が培ったインド人の「他人を見る目」は、端倪すべからざるものがあります。施す相手をパッと見極める。
また、彼らに慈悲心のあることは疑うべくもありませんが、施しの動機はそれだけではない。そうすることによって、功徳が来世、自分に返ってくることを固く信じているのです。
ここから先はしばらく、インドでのエピソードが続きます。
<28ページ 私の背中にしがみついたまま眠った女 より>
二人で並んで町の灯をぼんやり眺めていると、娘は突然、身の上話を始めました。
「私、売られたんだ。十三歳だった」
「いくらで?」
「牛一頭」
「牛?」
「うちには三人の妹と五人の弟がいるの。でも牛はいなかった」
「牛と換えられたのか」
「そうよ。私たち九人が畑に出るより、牛一頭のほうがよく働くの。だから……」
「誰が売ったんだ。父親か?」
彼女は黙ってうなずきました。
「なんて父親なんだ」
私がそうつぶやくと、彼女はキッと私を見据えてこういいました。
「立派な牛よ。真っ白で、まるまる肥ってて。あんな立派な牛となら、私だって換えたでしょうよ。それに、今はダッカのときほどつらくないし」
それから彼女は「見て!」といって、首に巻いている長いネッカチーフをつまむと、
「これシルクよ。今はバグワン(神)に感謝しているわ」といいながら、下へ行ってシーツを二枚もってきました。
「こんばんはここで寝ましょう」
娼婦の女性とのエピソード。ダッカは、バングラデシュの首都。
この「労働力」としてすべてを同等に見る前提、牛に対する敬意。豊かな日本で「誰の稼いだお金で学校へ行けていると思うんだ」と親に圧をかけられながら大人になる過程を経るのと、どちらが幸せなんだろうか、なんてことも考えた。
<45ページ なぜ、人はこんなに明るく死んでいけるのか より>
「インドの人は、どうしてこんなに明るく死んでいけるのだろうか?」
それはインドの宗教観にある。私はそう思いました。インドは輪廻転生思想(生まれ変わり)の発祥の地であり、国民の八割が信じているヒンズー教は、この思想が土台になっている。
死ぬことは滅することでも、冥界へ行くことでもない。死ぬとは肉体の衣を脱ぎ捨てただけで、魂はまたよみがえる。ただし、どんな生き物に生まれてくるかは、現世での行ないによる。簡単にいえば、輪廻転生思想とはこのようなものです。彼らは、小さいときから、そう教えられ、私が見てきたような環境で育ってきているのです。
これと関連して、「陰徳を積む」ことについての引用もあります。(一番最後の項目)
<46ページ なぜ、人はこんなに明るく死んでいけるのか より>
もう一つ輪廻転生思想で大切なことは、「自殺できない」ということです。できなくはないのですが、自殺することは大きなカルマを背負うことにつながる。よい生まれ変わりを目指す人間にとっては、どう考えても自殺はわりの合わない行為なのです。
(中略)
なぜなら肉体は天からの借り物であり、借りたものを自分で勝手に処分してしまう自殺は、間接的な殺人行為であり、そのカルマは次の生である来世にマイナス条件として加えられる。ということは、次の生まれ変わりでは、もっと悲惨な人生が待っている。それがいやだとまた自殺すれば、よりいっそうひどい人生になる。要するに自殺は奈落の底へ落ちていくようなものなのです。
インド人はそれをよく知っているから、どんなにつらい人生を送るようになっても、来世を期待して死ぬまでがんばって生きる。そういう考えで生きているから、死を迎えたとき「ああ、これでひと区切りがついた」とほっとした気持ちになれる。明るい顔をして死んでいける背景には、こういう思想があったのです。
肉体は、お借りしているウエア。洗ってお返しするくらいでないといけないのですね。
<57ページ 「歩けば血だけは凍らない」── チベット山中で遭難 より>
寝袋に入ると、思いのほか温かく、首筋の辺りが汗ばんできました。「よし大丈夫だ。このまま寝て明日は寺に行ける」。だが、眠りについたのもつかの間、夜中に私は寒さで目が覚めてしまいました。
気がつくと寝袋全体が凍っている。よく雪が降っているときは比較的暖かいが、その後に晴れると急速に寒くなるといいます。その状態と同じことが起きていたのでした。見上げると空には満天の星。私は主人のアドバイスを思い出しました。
「寒かったら、とにかく歩きなさい。歩けば血だけは凍らない」
ここからは、チベットです。
<60ページ 「何もしない修行」は凡人なら発狂する より>
「部屋にこもって何をしているのか」と聞くと「何もしてない」という。「なら会ってくれてもいいじゃないか」「いいや、ダメだ」の繰り返し。どうやら何もしないことがテーマの修行らしいのです。
何もしない、ということは精神的につらいことのようです。そういえば私などは、いつも逆のことをしている。誰に勧められたわけでも義務でも何でもないのに、次々に何かをして生きている。何かをしなければ生きていられないのです。
聞けば"何もしない修行"は、精神の弱い者が下手に取り組むと、発狂したり廃人同様になったりするという。そう聞かされて、私も少し落ち着きました。
わたしはこれがとても苦手です。日常でも感じるくらいなので、ほんとうに苦行だと思う。
<75ページ 戒律で自分を縛れば次元が上がる より>
ラダックへ来て寺に入り、出家はしていないものの、寺僧と変わらぬ日常生活を送るようになったとき、性欲をどう処理するかという問題が出てきました。
(中略)
夢の中に女が現れ、目覚めると夢精している。そういうときは夜中にひそかに抜け出して、谷川まで行って沐浴しました。それでも翌日、みんなの前に出るのが恐ろしかった。バンコクにいるとき、「女のにおいがする」と見抜かれて以来、そういう世界から遠ざかっている人間の前に出ると、悟られるのではという気がしてしまうのです。
このあと、そこから抜けていく様子が書かれています。
<78ページ 戒律で自分を縛れば次元が上がる より>
私はラダックで三年修行しましたが、その期間中は戒律をすべてきちんと守っていました。もちろん、煩悩の嵐に巻き込まれ、もだえ苦しんだことも数知れません。そのとき支えになったのは、戒律書を読むことでした。
そういう努力をしていると、どこかでポンと次元が上がる。体がわがままをいわなくなって、苦しみや悩みが消えていくのです。こういう状態が、"体が覚える"ということで、そうなるためには、煩悩の嵐を受けとめてそれと対峙することが絶対に必要なのです。
「体のわがまま」というとらえ方をすると、また視点が変わってきます。
<94ページ ダライ・ラマ亡命先の町で僧侶の俗化を見た より>
町にはディスコ音楽が流れ、僧衣をまとった者でもコーヒーをすすり、ラーメンを食べている。西洋人の若い女性と英語で親しげにしゃべっている僧もいる。アイスクリームをなめながら走る子僧がいる。似たような光景を、私はレーでも見ていました。(何だ、ここの僧侶たちは?)と思ったものです。
ヨガ仲間でネパール旅行をした女の子も、同じようなことを言っていました。
<100ページ 月面世界のような、想像を絶する環境での生活 より>
じっと山を見つめていると、次第に接地感覚がなくなってきて、ふわふわと山のほうへ自分が飛んでいくような気持ちになる。山がだんだん近くに見えるようになるのです。
(中略)
すると、自分の体を巡る血液の流れがわかってくる。ドクドクと流れる音が聞こえるとか、サラサラ流れる様子が見えてくる。こういう状態になると、手の先などが温かくんってくるのです。意識が一切の雑念を払うと、体は自分たちが生きるために最善のことをするようになるのです。
指の折れた人のことを知ったとき、アンドッス師は私にこういいました。
「あの山へ行って帰ってこられるようになれば、指は決して凍らない。折れることもない。それができなければ、指が折れるか、死ぬだけだ」
山を眺めていて、その意味がよくわかりました。頭で先に理解してしまうと体が覚えない。わからないなりに、必死に修行をしていると、あるときふっとわかる。それが体得ということで、体得したものは真に自分のものになり、生涯忘れることがありません。
「体は自分たちが生きるために最善のことをするようになる」。このへんが、中村天風師や沖正弘師のことばと重なります。
<132ページ 体と心にいい影響を与える「坐禅断食」 より>
私が人間の体の適応力、順応性のすごさをまざまざと見せつけられたのは、この世の中に「食べなくても生きられる人」がいるのを知ったときです。
私も過去にいろいろな奇跡的な出来事を見てきましたが、一日わずか一五○キロカロリーの摂取で、体重五○キロ台を十数年以上も維持している女性にはびっくりしました。
その女性は森美智代さんといいます。
「森美智代さんのブログ」、ちょっと面白いです。
<149ページ 同じ言葉を繰り返していれば体でわかる より>
禅の世界では「打破」ということをいいます。これは「はじめからやり直す」ということです。ある境地に達したら、そこから抜ける。抜けて別のことをやってみる。そうして、今の心のあり方が少しも変わらなければそれは本物だということ。「華厳経」というお経には「悟った人はそうせよ」と書いてあります。
打破とは、突破とは少しニュアンスが違って、このような意味だったのですね。
<157ページ 日本人の「やさしさ」は「弱さ」ではないか より>
輪廻転生の死生観をもつヒンズー教やチベット仏教では、死んだ人間は四十九日で生き返るとされている。だから喪に服するのは四十九日間だけです。
この間、遺族は派手なこことは一切慎む。肉や魚を食べない。歌ったり踊ったりもしない。音楽も聴かないし、お酒も飲まない。これらのことは厳密に守られます。なぜなら、この期間の遺族の態度が生まれ変わりを左右すると考えられるからです。
わたしは一度だけ、インド人師匠が喪に服している期間を見たことがあるのですが、ほんとうにストイック。驚きました。
<159ページ 日本人の「やさしさ」は「弱さ」ではないか より>
宗教もそうですが、戦後の日本人は国全体が豊かになったせいか、あらゆることにやさしくなった。それが今の日本を悪くしているように思えるのです。
やさしいのは悪いことではありませんが、やさしいだけでは困る。やさしさの背後に、生きることへの厳しさが控えていないと、人間は無限に甘え、堕落していってしまう。私は今の日本人のやさしさは、どこか弱さのように思えるのです。
五木寛之さんも同じことを書かれていました。(参考:「こころ・と・からだ 五木寛之 著」<110ページ 身を守るために より>)
沖先生は、最後のほうには「助けても意味のない人もいる」といった趣旨のことを書かれています。
<172ページ 牛や豚を殺して食べている現実を教える より>
鶏からチキンになることは知っている。だが、生きた鶏がどんなふうに処理され、内臓と血を抜かれ、食用のチキンになるのかは考えようとしない。はじめと終わりがわかれば、途中は抜きでもいい。これが今の教育の特徴といえます。
だが、子どもばかりを責められない。大人だって同じようなものだからです。
このへんからいろいろ紐づいてくるのですが、「いのちの食べかた」の感想もあわせて読んでいただくとより深まるかと思います。
<173ページ 牛や豚を殺して食べている現実を教える より>
仏教には「身不浄観」という修行があって、これは身体の不浄を想像することです。
人は常に九つの穴より身の不浄を排出している。目から目くそ、耳から耳くそ、鼻から鼻くそ、口から歯くそ、痰、性器からは精液や小便、肛門から大便、あと皮膚から汗と垢。そんな高貴な人も美しい人も変わらない。人間は薄い皮膚に覆われた「糞袋」のようなものである ── この不浄を細密に想像するのです。
また「食不浄観」というのもあります。これは人の口から入った食物が、胃や腸で消化され、次第に脱水されながら糞化していくさまを思い描くのです。
これも内観、ラベリングだなぁ。
<177ページ 死を考えることで、どう生きるかを体得する より>
現代は「何でもあり」の世の中です。こういう時代は価値観が多様化して、生きることが難しい。選択の幅が広いからです。何でもやれるよさはありますが、人間は煩悩があるので、水が低きに流れるように、レベルダウンしやすいのです。
「水が低きに流れるように、レベルダウンしやすい」という説明が、おそろしくわかりやすい。
<186ページ 今の日本では山里の生活をするのが理想的 より>
私はここに暮らしているうちに知り合ったKさんとの交流が忘れられません。Kさんは付近に四軒しかない近所のお隣さんで、年は五十歳くらい。老いた母親と二人暮らし、驚いたのは、Kさんが山と付近の里以外には行ったことがないこと。海も知らなければ、電車にもバスにも乗ったことがないのです。
赤ん坊のときに敷居に頭を強くぶつけ、少し頭が弱い。彼の特技はノコギリで木を切ること。薪づくりで五十年生きてきたのです。彼は私の家に薪をつくりに来てくれるようになり、お互いに話をするようになりました。
そこで私がまた驚いたのは、彼の言葉が坐禅の名人級だったこと。たとえばこうです。
「坊様、山は動くダカ、動かないダカ、わかるズラ」
「動くんじゃないかね」
「そうだ。よく知ってるじゃないか。山は動くダヨ」
「坊様、ノコギリが木を切ってるダカ、木が切られてるダカ、わかるズラ」
「そりゃァ、ノコギリが切ってるのと違うかね」
「違うズラ、俺らァが切ってるダヨ」
先にも紹介しましたが、お釈迦様の弟子にチューラパンタカという男がいました。数字を一から数えて一○までいかないうちに忘れるくらい物覚えが悪かった。お経も覚えられない。その男がお釈迦様にいわれ、来る日も来る日も掃除だけしていたら、ついに悟って阿羅漢(聖者)になったという話があります。
Kさんはチューラパンタカに匹敵する人だったのです。
この、チューラパンタカという人が、天才バカボンの「レレレのおじさん」のモデルなのだそうです。
<190ページ 自分の人生は誰にも頼らないで生きていく より>
今から三百年前、チベットにミラレバという高僧がいました。神通力をもった仙人として知られていた彼のところへ、ある者が「弟子になりたい」とやってきた。ミラレバはその男を高い崖の上に連れて行き、「ここから飛んでみろ」といいました。
弟子志願の男は「はい、わかりました」といって飛ぶ。神通力をもっている人がいうことだから、大丈夫なのだろうと思って男は飛んだのですが、予想に反して大怪我をした。
次にミラレバは、男を流れの激しい川のほとりへ連れて行き、「飛び込め」といった。今度は大丈夫だろうと男は飛び込む。激流に飲み込まれてまた死にそうになる。命からがら川から這い上がってくると、さすがに男もミラレバに文句をいいました。
そのときミラレバはこう答えました。
「なぜ文句をいうか。誰が助けるといったか。私が助けるだけの価値が、お前は自分にあると思うのか。お前は崖を飛ぶとき、私が助けてくれると思った。川のときもそうだ。だが、助けないと今度は文句をいった。そんな心のあるうちは助ける価値はない。弟子になる資格もない」
弟子志願の男は、はじめからミラレバの神通力をアテにしていたのえす。こんな危ないことをやらせるからには、「きっと助けてくれるはずだ」と甘えている。そんな気持ちで弟子になろうなんてとんでもないということです。
ここではミラレバと書かれていますが、ミラレパさんです。ミラレパさんのエピソードは書物が高くて出会える機会が少ないので、単純にこのお話を読めて嬉しかったです。
<194ページ 人の感謝をあてにしては陰徳は積めない より>
陰徳とは「人に知られないように施す恩恵」のことです。陰徳を積むことは、インドやチベットでは、みんなやっていることです。人への施しは、別に難しいことではない。それぞれ自分ができる範囲内でやっている。自分の今置かれた環境、境遇でできることを、それぞれが熱心にやるのです。
日本では「人に施すなら、まず自分がそれだけの余裕をもたなければ」と思ってしまいますが、インドやチベットの辺りでは、少し違った考え方をします。どんな小さなことでも、自分ができることをすれば、それは陰徳を積んだことになるのです。
たとえば路上でお茶を飲んでいると、子どもがやって来て後ろにそっと立つ。事情を知らない人は「変な子どもが来た。物乞いでもするのだろうか」と思う。でもそれは違う。この辺は日差しが強い。その子は後ろに立つことで、日陰をつくってくれているのです。
このお話には、素直に感動しました。インドは本当に唐突にこういうことあるので、やっぱり輪廻転生の思想については、「前世はなんだったのでしょうか?」なんていう占いのようなノリの興味ではなく、全体観で知っておいたほうがよいと思います。
まめにチェックしていると中古で手に入ります。