アシュタンガ・ヨガの先生にこの「チョギャム・トゥルンパ」という人について教えていただいて、気になったので図書館で借りて読みました。リンクのWikipediaを見ていただければわかるとおりですが、生後13ヶ月で活仏として認定され、活仏としての英才教育と修行の日々を経て、中国のチベット侵略により20歳で300人もの人々を(なりゆきで)引き連れてインドへ亡命。ダライ・ラマから精神的アドバイザーに任命されてチベット僧の指導にあたったひとです。
そしてここからがすごいのですが、、、 というのはとにかくWikipediaを読んでみてください。
この本は、チョギャム・トゥルンパ(第十一代目トゥルンパ・トュルク活仏)が20歳でインドへ亡命するまでの伝記です。前半はその修行の日々を、後半は壮絶な亡命巡礼の旅になっています。今日は前半の修行〜チベット脱出まで追い込まれるところまでをご紹介します。
先に裏表紙の文章を紹介します。
チベット仏教には《生まれ変わり》の思想が厳然と生きている。ダライラマをはじめ主だった宗派の高位の僧は、転生・化身を繰り返し、活きた仏として法統をうけ継いでいく。
本書は、カルマ派の活仏の一人として生まれた著者が、幼時からの高僧教育や僧院での生活を克明に語るとともに、中国共産軍からの決死の脱出を描いた、心揺さぶる記録である。
最後のほうはジェットコースター・ドラマのようになっていきます。
そしてこのカルマ派というのは、ミラレパたんとマルパたんのカルマ・カギュ派。前半の文中にミラレパたんの記述がちょいちょい登場するのも読みどころです。
ではでは、紹介いきます。
■第四章 デュツィティルでの子供時代 より
<46ページ>
初めて彼(ジャムゴン・コントュル)を見たとき、私はとても強い印象をうけた。私が以前会ったどの先生とも違っているのだ。体が大きく陽気な人で、すべての者にわけへだてなく親切で寛大であり、深い理解に裏づけられたユーモアに富んでいる。そしていつも他人の悩みに耳を傾けた。当時あまり健康がすぐれなかったが、彼のそばにいると信じられないほど心が落ち着き楽しかった。私に向かって彼はこう言った。「私たちは今ここに再会した。以前あなたの先代トゥルンパが自分の先生であったように、今度は自分がああたの先生になったのです」と。彼は第十代トゥルンパに教えられたことや小さい時にうけた愛情をすべてよく憶えていた。彼はまた「財産は持ち主にお返しするもの」というチベットの諺のように、自分の尊師(グル)からうけた恩を私に返すことができてとてもうれしいと言うのだ。
前半はすてきな先生とのエピソードがたくさん登場します。次に引用する言葉は、いいですよぉ。
<47ページ>
彼は言う。山の向こう側を知らずに、山を越えようなどという危険を冒してはならない。絶対的究極的真理と相対的世俗的真理の両者を知るべきである。人は出家する前に、苦悩や世界のはかなさをよく知る必要があるのだ。
「絶対的究極的真理と相対的世俗的真理の両者を知るべきである。」
バランスですね。中道。
<54ページ>
デチェン・チョリンでは、アポ・カルマ(先生の名前)はより難しい一般教養の授業や作詩の授業をし、ロルパ・ドルジェは仏教の形而上学の基礎を教えてくれた。彼は、私が密教をさらに深く理解するためにゴン・ドロ(前奏)を学び始めるべきだと考えていた。これは精神的向上への準備であり、次のような内容をもつ。
(一)十万回の投地
(二)三帰依文の十万回念誦
(三)執金剛(ヴァジュラ・サットヴァ)の真言の十万回念誦
(四)十万回の象徴的礼拝
(五)グル・ヨガすなわち『師との合体』の真言の十万回念誦
同時にもう五つの課題にも思いをこらさねばならない。すなわち、
(一)この人生で精神的教えをうけることができるという恵まれた特権
(二)生命およびその他あらゆるものに伴うはかなさ
(三)カルマ(行為)の原因と結果
(四)苦しみの理解
(五)献身の必要性
私はこれらすべてに深い影響をうけた。すなわちこの地に生き、これらの教えを学び、絶えず瞑想することによって、私はこれから入っていく生活の準備としての深い理解力を養成していったのである。
投地といってもただお辞儀しているだけではなくて、「スーリヤ・ナマスカーラ」と「セカンドへの盗塁スライディング」を足して2で割ったようなあれでしょうから、そうとうハード。これが「これから入っていく生活の準備」というのだから、ものすごい教育。
■第五章 第十代トゥルンパの足跡 より
<69ページ>
トゥルンパ・トュルクは、尊師(グル)の教示に従いスルマンに戻ることにした。二人にとって別れは辛く、別れの宴のあと、トゥルンパは徒歩で旅立った。スルマンに帰するとすぐさま彼は、瞑想センターを建設し、僧院の秩序を整える仕事に着手した。彼が仕事に没頭しているとき、ジャムゴン・コントュル活仏逝去の知らせが届いた。深い悲しみに沈みながらも、彼は他の四つの瞑想センターを建てる仕事をやりとげた。それらの瞑想センターはどれも、私の時代に中国共産党がチベットを支配することになるまでずっと栄えたものである。先代のジャムゴン・コントュルの信頼をうけた後継者として、第十代トゥルンパ・トュルクは、この後、セチェンのジャムゴン・コントュルとペプンのジャムゴン・コントュルの師となった。スルマンにおいても彼は、ますます多くの信奉者を得、その徹底して簡素な生活の故に第二のミラレーパ(木綿服のミラといわれる聖者)と呼ばれるようになったのである。
ここで書かれているトゥルンパ・トュルク=著者の先代の活仏(転生前の人)です。スルマンというのは地名で、トゥルンパ・トュルク活仏の活動の本拠地。先代は第二のミラレーパと言われた人なのだそうです。
■第八章 多方面にわたる訓練 より
<101ページ>
雑誌に載っている世界地図を見せられたとき、私は他の民族がどんな生活をしているのかとても知りたく思った。これまでヨーロッパ人は交易路に沿ってラサまで来たぐらいで、それ以外の地域の人々は外国人を見たこともなかったからだ。私は尊師と一緒にセチュンにいるとき、他の言語を学びたいと思い、アムドの方言を学び始めたことがある。そこでは同一の語をわれわれと異なった発音で言うのみならず、他の方言では廃語になった古い語彙がまだ生きているのだ。私は言葉についてもっと学びたく思い、いつの日かヨーロッパの言語や綴りも分かるようになりたいと思った。
この著者さんは将来、オックスフォード大学に留学します。
<つづき>
しかし私には他に学ばねばならないことがあった。ロルパ・ドルジェ活仏とその他の長老僧たちは、私が、宗教儀式の踊りを学ぶ時期が来たと考えていた。(中略)
私が習う型は、ミラレーパの「精神的祖父」であるナーローパから伝わり、初心者のレベルから最終レベルまでの段階を示すもので、『偉大なる集合』(ツォクチェン)と呼ばれる。それは「報身仏(サンボーガ・カーヤ)」の曼陀羅である『無上の幸福の輪(コルロ・デムチォク)』に基づくスルマン独特のものであった。
(中略)
私の生活のリズムは一変した。今までの僧院での瞑想修行を中心とする静の生活に対して、今度はすべてが動の世界なのだ。
このあと「フラ・ガール」みたいなエピソードになります。うちこも習ってみたい。
<110ページ>
先生は私に、異なる宗派を比較研究し、それらの共通点を説明することを勧めた。彼は、私の他宗派の教義に対する批判に耳を傾け、こう言った。「単に理論のみに走ってはいけない。教えの意味をじっくりと考えてみるのだ。仏陀の教えだからといって鵜呑みにするのでなく、自分自身で吟味しなおさなければならない。中道をとることが大切なのだ。ある教えを経典のなかに見出したとき、真実それに従おうと思えば、その本当に意味するところを自分自身で探り出さねばならない。知識というものは金と同じ方法で試される。まず精製され、打たれ、磨かれてこそ本当の輝きが出て、純金であることが見出されるのだ。」
「理論のみに走ってはいけない」「自分自身で吟味しなおす」「中道をとる」、すばらしい教え。
■第九章 ダライラマの訪問 より
<127ページ>
私は間もなくセチェンを立ち去らねばならなかったので、最後の三週間はジャムゴン・コントュル活仏と彼の住居で過ごした。彼は私に最後の教えを授け、こう言った。「あなたは私からひじょうに多くのことを学んだが、まだ知識を磨かねばなりません。人に教えたり、読んだり、思索したりする経験から人は多くのことを学ぶのです。教師は、他の人を援助することを拒んではならない。人に教えることによって自分も常に学ぶことができる。これが菩薩道です。菩薩は他人を救済しつつ、自分自身がさらに深い悟りに到るんです。人は自分がすることに完全に目覚めていなければならない。人に教えるときにもし自分自身の理解が十分でなければ、深い精神的な意味を無視して、単純に表面的に言葉を用いてしまう危険があります。だからあなたは自分が、常に生徒であることを忘れてはいけません。」
「人に教えるときにもし自分自身の理解が十分でなければ、深い精神的な意味を無視して、単純に表面的に言葉を用いてしまう危険があります。だからあなたは自分が、常に生徒であることを忘れてはいけません。」It's 菩薩道。カルマ・ヨーガ道。
■第十章 カムパの決起 より
<133ページ>
ある日私は、ジャムゴン・コントュルから秘密文書を受け取った。それには、彼はセチェンを脱出し、ラサに向かう途中であると書かれていた。彼はスルマンの近くを通るので、私とケンポ・カンシャルに秘かに国境付近で落ち合い、一緒に中央チベットまで同行してほしいと書いてあった。そこで私たちはそこまで行き、彼が数人の高僧や難民たちと一緒にいるのを見た。しかし、私たちが到着したときには、彼の考えは少し変わり、私たちが彼と一緒に中央チベットに行くかどうかは私たち自らの決断にまかせると告げた。私たちが今スルマンで行っている仕事はとても価値あるもので、それを続けるべきか否かを考えるのは重要なことだからだ。いずれの道をとるべきかを決断するのはとても難しいことで、とりわけ、もしスルマンに戻れば、もう二度と尊師に会うことはできないだろうということは分かっていた。私たちは、他の高僧とその問題を話し合い、結局ジャムゴン・コントュルが最良だと思う方法をとるという結論に皆が一致した。しかし、ジャムゴン・コントュルは自分の一存ですべてを決定することをせず、ただ、チベットはこれまでと同じ道をたどることはもはやできず、今後は私たちが新しく道を切り開いていくことが最良の道であるとの考えを示唆した。彼は言った。「カルマ(業)の法則は変えることができない。各々が、自分に割り当てられた運命を向き合い、自分の内的意識の導きに従って行動しなければならない。」
このへんからハラハラ・ドキドキする描写が増えていくのですが、この「あなたが最良と思う決断に従うという結論」へのNOの出し方は、サラリーマン必読。
「各々が、自分に割り当てられた運命を向き合い、自分の内的意識の導きに従って行動しなければならない。」
仕事上のすべてのジャッジにあてはまる。
<140ページ>
私たちが僧院に戻ると、中国人は既に私の住居から立ち去っていた。ケンポ・カンシャルは、もはや学堂に出席している僧だけに教えを授けるべきではなく、すべての人々に今すぐ教えることが必要だと感じた。そこで彼は秋に集会堂で大法会を開いた。そして朝七時から夜九時まで、間にたった二時間の休息しかとらずに講義をしつづけた。彼は、自分たちがいまどのような時代を迎えつつあるのか認識することがどれほど必要かを、やさしい言葉で説明するのである。私たちはもはや宗教儀式を行うことを許されないかもしれない。しかしこんなことで仏陀が私たちに授けた根本的な教えやチベット人の連帯を破壊することは決してできないのだ。仏陀の言葉を引用して彼は言う。「悪いおこないをやめ、良いことをして、あなたの魂を浄化しなさい。」私たちは正しく行動し、自分自身を知らねばならない。各自の心の中に寺を建てなければならない。「この世は苦しみである」ことを示す第一段階の教え(苦諦)から「苦を滅した悟りの世界」の存在を説く最終段階の教え(道諦)にいたる仏陀のすべての教えを統合し、実践しなければならない。ケンポ・カンシャルは、さらに認識と慈悲を実践する道を説明した。すべての人が不殺生の戒を守り、そのためには、行動に移す前に常に自分をコントロールすることを学ぶよう人々を励ますのだった。
「自分自身を知らねばならない。各自の心の中に寺を建てなければならない。」僧院破壊、虐待が本格化していくなかでの教え。
そしてここで著者はケンポ・カンシャルよりキョルポン(博士号)の学位とケンポ(教授)の学位を授与されます。19歳のとき。試験中に悪い知らせが続々届いた、とありました。
■第十一章 孤独な使命 より
<145ページ>
ジェクンドにいるあいだ、ケンポ・カンシャルは町でチベット人たちに講義をし、地方の僧院からはその学堂に招待された。そこでは何人かの若い学僧が彼の考えについて討論をしたがっていた。そこでケンポは、如何に深遠な哲学的文言も、それが実践に生かされることがなければ、それ以上何の役にも立たないのだということを強調した。慈悲についての討論のなかで、彼は僧徒たちにその意味をたずねたところ、経典からの引用をもって答えようとする若い僧たちに対し彼は言った。「聖典を引用するだけでは役に立たない。経典を暗誦することは誰にでもできるのだ。あなたたちは自らの行動を通して慈悲を行じなければならないのです。」
「実践に生かされることがなければ、それ以上何の役にも立たない」。
<169ページ>
ヤクのチョポン(儀式の侍者)は年寄りで、とても疲れていたが、彼に代わる者は誰もいなかった。『貴重な教えの宝庫』のワンクルは、長く複雑なので、出席者の多くは、私に自分たちが今受けたばかりの精神的な教えの意義をもっと簡単な言葉で説明してほしいと言ってきた。中国軍の接近によってすべての者が混乱に陥り、不安を抱いていたが、宗教的な生活への信頼は揺いでいなかったのである。人々は個人的な交りを必要とし、なぜ自分たちはこんなに不安なのか説明してほしいと言う。自分たちに理解できることならば、もっと教えを受けたいとも言った。女性は僧院内に入ることが許されていなかったので、私は農民の一家に頼んで、彼女たちが私と話にこれる特別な集会所を準備し、人々に規則正しい瞑想の重要性を強調することを通して人々の心に救いを与えようと精いっぱい努力した。そこで私は説いた。「瞑想の精神でもって、日常の義務や活動を実践しなさい。近くに尊師(グル)がいないなら、自分自身のなかで教えを発展させなさい。」私は人々と一緒にもっと時を過ごすことができないのが残念でならなかったが、今やスルマンに戻らねばならなかった。スルマンでは私の存在がどうしても必要になっていたのである。
「なぜ自分たちはこんなに不安なのか説明してほしい」。窮地で深彫りされるこの問いは、原始的で、とても深い。
この本の中でワンクルは「灌頂」と記載される箇所もありましたが、この本を読みながら、タイの「ワイクルー」も同じ由縁なのだろうなと思いました。
■第十二章 身を隠す より
<189ページ>
デュツィティル僧院も同じ運命を逃れることはできなかった。北側から攻撃をしかけた中国軍はまず図書館になだれこんだ。貴重な典籍はすべて表紙から引き裂かれ、外に投げ出された。立派なチベット語の論文もばらまかれるか馬の餌にされた。仏像やラレプのような貴金属で作られた仏殿の宝物は毀して持ち去られ、貴重な絵巻やタンカは兵士の肉や米を配る盆として使われた。高価なものはすべて掠奪の対象となった。彼らは第十代トゥルンパ・トュルクの墓にまで押し入り、防腐保存された遺体を晒しものにした。
このあとの第十三章「脱出」からは、決死のヒマラヤ越え。「山の向こう側を知らずに、山を越えようなどという危険を冒してはならない」という教えを守ってもいられない事態になっていきます。
山際素男さんの「チベット問題」や、伊藤健司氏の旅行記「ミラレパの足跡 ― チベットの聖なる谷へ」で、この問題について多少知ってはいたものの、「活仏」の立場で描かれた自伝は迫力があります。
そしてこの本は、武内紹人氏の訳がとても丁寧。すばらしいです。
⇒後半の紹介はこちら
⇒同著者さんの本「タントラへの道 ― 精神の物質主義を断ち切って」