うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

空海 塔のコスモロジー 武澤秀一 著

今年発売になった本なのですが、非常に気になり購入。著者さんは建築家。
そんなに気にかけているつもりはなくても、空海さんゆかりの地を訪ねると、切り離せない存在として塔がある。なかでも高野山の根本大塔の中はお気に入りの場所。再建された塔なので新しいのですが、でも、なんだか不思議と落着く空間なんです。
高野山の中には根本大塔のほかにもいくつかの塔があるのですが、うちこはその周辺を歩いていると、なんだかものすごく不思議な感覚があります。奥の院とはまた違った感じ。でも、この「感じ」についてはうまく表現できないのですが、もしかしたら人は先天的に長く伸びたものが好きなだけかもしれないし、本当になにかエネルギーがあるのかもしれないし、バカと煙は上にあがるというように、なんだか上にあるものに魅力を感じてしまうおバカさんDNAなのかもしれない。でも、なんだか引き寄せられる。その吸引っぷりが不思議なんです。

見ていても、あまり楽しくは感じません。坐像のほうが100倍萌えます。根本大塔も「中」が好きだし。特に好きじゃないのに、なんだか引き寄せられる。好きじゃないんだけど、引き寄せられると否が応にも少しは興味がわいてきます。
というわけで、読んでみました。いくつか紹介しますが、この本は「あとがき」を先に紹介しておくのがいいかな。

<252ページ あとがき より>
 現代のように科学技術が高度に発展した文明社会においては、いろいろな情報や固定観念に縛られてかえって想像力が狭められ、とても窮屈になっているようにも思います。塔に関わるコスモロジーの探求が読者の方々の心の再発見につながるなら、著者としてとても嬉しい。
 本書では塔のコスモロジーを解きほぐすキーマンとして空海に注目しました。当時の圧倒的な文化的先進圏であったインド、中国からあらん限りの情報を吸収し、しかも呑み込まれることなく独自のコスモロジーを打ち立てた空海──。

建築家の著者さんが、上記のような気持ちで書かれた本です。


<9ページ そもそも柱とは より>
 そもそもハシラという語は二つのものを結びつけるという意味だった。天御柱は天と地をむすび、神々は天から柱をつたって地上に降臨すると考えられていた。教でも神道においては神々を一柱、二柱と教える。柱は天から神が降り立つ依り代であり、また御神体ともみなされている。

「結ぶ=ヨガ」ですね。

<15ページ 舎利をもたない塔の出現──塔の地位の低下 より>
 さて『薬師寺縁起』によれば、東西に並ぶ二つの三重塔それぞれの中心をつらぬく心柱の傍らには、釈尊ブッダの生涯が塑像で表現されたという。二つの塔はセットとして扱われ、東塔には前半生を表す四つの場面(母マーヤー妃の胎内に入る─誕生─王宮における享楽的生活─王宮を出てからの苦行)、西塔には後半生およびその後を表す四つの場面が設定された(誘惑を振り切っての悟り─人びとへの説法─臨終から涅槃─仏舎利を奪い合う事態となったため、これを八つに分ける)。
 西塔の中心に舎利を納める孔があった。あわせて釈尊ブッダの生涯の画期を伝える八つの場面は東塔にはじまり、西塔に終わる。そして舎利は西塔の心礎に納められたのである。ということは東塔には舎利が納められなかった。
 舎利を納めない塔が生まれた!
 舎利崇拝からはじまり、舎利を納めることを第一義としてきた塔であったが、とうとう舎利を納めない三重塔が生まれたのである。これは塔本来の意義が薄れてきたことの証しといえよう。

これは単純に、お寺巡りを楽しむための知識として、メモ。塔がブッダの生涯を表現していたなんて、知らなかった。

<163ページ 断片と化した"中心" より>
(東寺は)
 本来、世界の"中心"であるはずの塔が、伽藍の中枢部から外れた"隅っこ"の"隅"にある。
(中略)
 伽藍配置も塔のあり方もすでに決定済みという事情があったが、空海はそうした現実の制約を受け容れたうえで、密教"宇宙"を実現するために可能性の限りを追求したのである。塔の理想的なありかたをもとめつつ、現実と妥協することをいとわなかった。かれは決してオール・オア・ナッシングの理想化肌ではなく、現実の条件の中で最大の果実をもとめる人だった。

「オール・オア・ナッシングの理想化肌ではなく、現実の条件の中で最大の果実をもとめる人だった。」まさにここが、現代に生きる自分が、空海さんに惹かれてやまない理由。「空海の夢」で松岡正剛さんは「きらめきを多様の中に求めようとする。」と表現されています。

<179ページ 身体を"宇宙"に重ね合わせる より>
 輪のイメージは人体の断面図とも重なる。密教は宇宙とひとつになる身体技法を重視したので、それは五大と身体をむすびつけるのに有利だったと考えられる。
 七世紀後半のインドで成立した『大日経』はつぎのようにいっている(要旨)。

 足より臍にいたるまで地輪を生成させ、臍から心臓にいたるまで水輪を観じなさい。水輪の上に火輪がある。その上に風輪が、さらにその上に空輪がある。

 密教ではこの身は大宇宙に対する小宇宙とみなされる。大宇宙は仏の身体、仏身である。このことは瞑想のなか、己の身において感じ取り、ほとけと一体となるのが密教の悟りである。密教の根本には、宇宙のあらゆる存在は地─水─火─風─空(虚空)の五大からなるという思想がある。ほとけとひとつになるとは自身を五輪と感じ取ることであった。空海は『大日経』のこの一節にもとづいてつぎのようにいう(『即身成仏義』)。
 
 真言者よ、円壇をまず自体に置け
 足より臍に至るまで大金剛輪を成じ
 此れより心に至るまで当に(まさに)水輪を思惟すべし
 水輪の上に火輪あり
 火輪の上に風輪あり

 真言者とは真言密教の修行者。円壇とは円い壇、つまりマンダラ。大金剛輪とは地輪。心は心臓、胸。のちに触れることになるが、空海没後にひろまった五輪塔は、これを形象化したものである。

大日経のヨガっぷりがすごい。というか、まんまヨガ。

<209ページ 空海の本音は より>
 以上のように、空海自身が伝える付法の系譜において圧倒的に優勢なのが金剛界系であり、空海に至る直前で、つまり恵果において胎蔵と金剛界が並んだにすぎなかった。空海は直接的には恵果から灌頂を受け、両部マンダラを受け継いだ(805年)。空海は伝授された両部を日本の地に伝えた。しかし心の底では、恵果の師であった不空への関心と傾倒ぶりは並々ならぬものがあったようだ。

これは、今後なにかの発見とつながりそうなので、メモ。

<216ページ 金剛界の"拡張・収縮"システム より>
 金剛界マンダラの拡張プロセスにおいては一瞬のうちに五倍になる"掛け算"が発生し、収縮プロセスにおいては一瞬のうちに五分の一になる"割り算"が発生する。
 これにくらべ、胎蔵マンダラの拡張プロセスにおいては一つひとつ"足し算"的に、収縮プロセスにおいては一つひとつ"引き算"的に同心的関係がくり返される。

これが今回、いちばん「うわー、インドだ」と思ったところ。「こころを鍛えるインド」に、インドの子供は立方体を描いてみなさいというと展開図を描くほうが多数であるというエピソードがあったのですが、マンダラのプログラムもすごいもんだ。インド人の頭の構造は、やっぱり違うね。
↓参考図(同書より)

218ページ 日本で人気の胎蔵マンダラ より>
 これは日本的特徴であるのだが、今日でも両部のうち胎蔵マンダラのほうが人気が高い。それはやわらかく包み込む感覚にあふれ、女性的といえる。このほうが日本では好まれるのである。
 一方、金剛界マンダラは完璧すぎて近寄りがたいと見られがちだ。

うちこは金剛界マンダラのほうが直感的に惹かれるのですが、たしかに胎蔵マンダラのほうが、群がる人の量からして人気がある気がします。「なんだよ、こっち人気ねぇなー」って思ってた(笑)。

<232ページ 五輪塔と五輪思想 より>
さてインドでは古来、四大を幾何学的な形で象徴してきた。すなわち、
 地=正方形
 水=円
 火=三角形
 風=半月形
とみなす伝統があった。『大日経』はこれを踏襲している。その解説である『大日経疏』は空について「一点で示せ」と教えるが、じっさいには無理なので、空は宝珠で示される。
 このようにみてくると、五輪塔とは宇宙を象徴するとともに、悟りに達したひとのすがたを表していることになる。墓標として尊ばれたのもうなずけよう。

五輪塔については、以前何度か書いています。
この記述の挿絵が、とてもいい。


なんか、かわいい。そして、イリュージョン風。


うちこはこの日記でずいぶん空海さんとヨガのことを書いてきましたが、塔の本の中にもヨガがいっぱいでした。
▼最後に、空海さん関連でこれまでにここで紹介した本のリンクを張っておきます。
図解雑学 空海
空海の世界 金剛鈴の響き 桜井恵武/撮影
空海の夢 松岡正剛 著
黎明 葦原瑞穂 著
実修 真言宗の密教と修行
集英社版学習漫画「空海」
空海 民衆と共に―信仰と労働・技術  河原宏 著
空海とヨガ密教 小林良彰 著
『空海の風景』を旅する NHK取材班 著
密教―悟りとほとけへの道 頼富本宏 著
謎の空海―誰もがわかる空海入門  三田誠広 著
密教―インドから日本への伝承 松長有慶 著
悩め、人間よ―親鸞、空海、日蓮、隠された人間像
はじめてのインド哲学 立川 武蔵 著
「仏教とヨーガ」保坂 俊司 著

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5 “知られざる”空海