ご近所友達のユキちゃんのダンナさんが貸してくれました。6月に同じ著者さんの「空海 塔のコスモロジー」を読んで、そのとき感想にコメントをいただいた方から「こちらもよいですよ」とすすめられていたもの。今はさしあたって借りている本がたまっているから、それ読み終えたら読もう、と思っていたところにスッと差し出されました。
ユキちゃんのダンナさんはエンジニアさんなのですが、このあたりに興味を持った模様。なんかわかる気がする。わたしは空海さんをヨギとして追っているのですが、「高野山よく行ってるよね、たしか…」という感じで貸してくれたんだろうな。エンジニアにもヨギにも、ひいてはIT系のヨギなら両面においてイマジネーションと合点のツボを刺激してくれるマンダラの世界、さっそくメモを紹介します。
<181ページ 高野山における空海の構想 前代未聞の伽藍配置構造 より>
講堂が伽藍の中枢にくるとは、前代未聞であった
それまでの伝統的な伽藍にあって講堂は伽藍の中枢から隔離されていた。たとえば法隆寺の西院伽藍では今こそ講堂が列柱回廊に囲まれた聖域に面しているが、これは平安時代中期、十世紀も末近くになってからおこなわれた回廊の改造によるものだ。当初、講堂は回廊によって閉じられていた聖域の外にあった。修行の場は聖域から遠ざけられていたのである。いわば "よそゆき" の顔をもっていた伽藍が空海によって実質本位のものに転換されたのであった。さらに驚くべきことに、
空海の構想の中には金堂がなかった
本尊をまつるという従来の金堂の役割は、同形同大の二つの塔に移されたのである。
(中略)
たんに本尊をまつるだけの、いわば "よそゆき" の金堂はいらない。マンダラ世界を体現する塔こそが金堂に代わって伽藍の中枢を形成する。密教の根本道場においてもっとも重要なことは心身をマンダラ世界に浸すことなのであり、そのための中心的役割を塔が果たすのだ、という空海の信念をここに読み取ることができる。
実践あるのみ。ヨギですなぁ。
<200ページ 東寺の「立体マンダラ」 金堂 "無力化" 戦略 より>
空海はすでに決まっていた伝統的伽藍配置(金堂に本尊である薬師如来を安置)を何食わぬ顔で受け容れ、それでいて伽藍の意味内容をガラッと変えてしまったのである。
密教の道場としての講堂が金堂よりも上位に位置づけられた
これは新しい寺院のありかたであった。空海が練り上げ、すでに実行段階に入っていた高野山の伽藍配置構造と軌を一にするものでもあった。
かれは "確信犯" であった。
道場第一。ヨギですなぁ。東寺は実際、とっても不思議な感じ。大日如来じゃなくて薬師如来だし。その時代のトレンドが優先されている。そのポリシーはそのままで、「この寺を任せたい」といわれ「任せたっていったじゃんかよー」とやさぐれない空海さん。それはさておき、「俺的には、こう」となにげにコソーリ道場にしちゃってる。かっこいいというよりも、なんか楽しんでいる感じがするんですよね、いろんなエピソードにそれを感じます。空海さんは、ものすごいハッピーマンだったんじゃないかと思う。
最後には、ちょっと行きたい観光情報も載っていました。「おわりに 闇のなかの "立体スゴロク" 」の章で紹介されている「田谷の洞窟」と呼ばれる神奈川県横浜市栄区にある石窟。(⇒行きました!)
▼おまけ 姉妹書。
空海 塔のコスモロジー
聖なるものの体験。建築家の目で、体験を与えた場を、他国への伝播を追いつつ考察
マンダラを巡る知的冒険☆
立体マンダラが先なのか?!