うちこのヨガ日記

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空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」 加藤精一(編集)

このシリーズが好きです。はじめて「三教指帰」を読んでそのおもしろさに感動して以来、こつこつ読んでいる「ビギナーズ日本の思想」の空海。今回読んだ本は「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」が一冊にまとめて収められています。2015年にこのシリーズの「秘蔵宝鑰」を読んだ頃はわたしがヨーガとサーンキヤ以外の六派哲学について学んでいた時期。当時は空海さんの思想の奥にある知識の網羅性に驚きながら読んだのですが、今回は空海さんのサンスクリットの理解の粒度とその変換センスに驚きました。
これはわたしがこのシリーズが大好きになった理由でもありますが、加藤精一さんというかたの解説が好きです。わたしは空海さんの思想を「空海式ブラフマニズム」と理解しているのですが、権威に縛られては理解できない領域について、丁寧に補足が加えられています。
ブラフマン梵天ですね、とか、大日如来如来だから云々…という仏教の中での一般的な知識を排除しないと入って行けないところまで連れて行ってくれるのに、やさしい。そういう解説。

 

即身成仏義

解説に「即身成仏義」だけに華厳の用語が多く見られるとあり、わたしもこの部分が少し気になりながら読んだのですが、気になっているときの感覚は「ヨーガ・スートラの第一章の順番をあのようにしたパタンジャリの学派の人々は、仏教との共通点と譲らない部分について、こんなふうに言いたかったのではないだろうか」という思いでした。インドの書物は註釈家の力を信じて残されているけれど、そこの地盤がゆるいとなれば、自分で丁寧に説いていくしかない。そういう時代に他国から伝わってきた教えに自分の理解していることを伝えようとしているうちに、自分の中で思想が「空海式ブラフマニズム」のようになっていったのではないか、そんな思いを抱きながら読みすすめました。

空海さんのおそろしいところは六派哲学を包含してしまっているところなのですが、以下の部分などは空海式アドヴァイタ・ヴェーダーンタとでもいうような、なんだかすごい解説です。
「集起」(じっけ)とは、集は人間の行動がアーラヤ識に種字(しゅじ)の薫習(くんじゅう)を与えることをいい、起とはこの識から次の行動が起こされることをおおいます。唯識の教学で内心のアーラヤ識と行動との関係をあらわす用語です。このように、智と識(心)とは、大日と衆生が同体であるとすれば、同列に論じられることになり、智は即ち心であります。しかも真言密教では、教えとか教理とが独立して存在するとは考えずに、教え(法)と教えを体現している人格(人)とは離れたものではないのです。つまり「教え」というのは、ある人格の生きざまそのものなのであって、そのゆえにこそ「法」は尊いのです。人生を離れた教えなどあり得ない(人法不ニ)というのが真言密教の基本なのです。
(「即身成仏義」八 心数心王刹塵に過ぎたり、各々五智無際智を具す より)

ヨーガを学んでいる人にとってのチッタである「集起」をキーにはじまり展開される人法不ニまでの流れ。美しすぎる…。と思うのはわたしだけでしょうか。

 

声字実相義

まるでチャラカ・サンヒターのように「問う、これこれ~」「答える、これこれ~」という形式が取られている箇所があったりして驚きます。五大の説明を顕教的・密教的な見方に分けて説明して行く流れなどは、めちゃくちゃ話の展開づくりのうまい人のようです。ジャパネットたかた社長のようとでもいうのかな…。このように。

 初めに五大というのは地大、水大、火大、風大、空大のことですが、これに顕教密教の二つの理解ができます。顕教的に見れば、五大は常の解釈のように、物の構成要素としての五つのことですが、密教的な見方からいたしますと、五大は五字、五智、五仏をあらわしています。そうなりますと中央の大日と四方の阿?・宝生・弥陀・不空成就の五仏のことで…(以下略)
(声字実相義 二 釈明体義 より)

ヨーギー的には、そうなりますと~以前までのところが読みどころです。「バガヴァッド・ギーター」に出てくるサーンキヤは理論のヨーガという意味=顕教的というふうにいえてしまうこの展開!クリシュナがいままさにアルジュナと築いている関係が密教的であるといえてしまうこの展開! こういう、置き換えられる状況を想起しやすい説明のしかたがすごいんだよな…。


「言語」の説明を読むと、しっかり「空海式流出論的一元論」とでもいうような思想が確立されています。

すべての言語も大日より流出し、さまざまに転変していって、世間に流布している言語となるだけです。こうした真実なる関係を知っているのを真言と名づけ、これを理解していない場合の言語を妄語というのです。妄語を耳にしていては長い夜のごとき果てのない苦しみを受けることになり、逆に真言を耳にすることによって我々は苦を離れて楽を得ることができるのです。

続きがあるのですがいったんここで中断します。わたしは身・口・意を浄化する「口」の部分が10年以上ヨガをしていてもいまひとつ理解できていなかったのですが、マントラはずっと省かずにやってきました。そしてこの解説を読んでハッとしました。omは「聖音」だというけれど、その意味を逆から説いてくれたながれで、はじめて結びつきました。部分部分では、すべて知識としてはあったのだけど、この説明で結びつきました。続きも紹介します。上記の流れから、よい言葉を選ぶことの重要性について説かれます。

(つづき)

これは丁度、薬と毒を迷悟の立場で用いると、一方で身体が楽になり利益が大きく、一方では身体に悪い作用をして損害が大きいのと同じです。悟りの立場に立ってうまく使いわけなければなりません。
(声字実相義 二 釈明体義 より)

このあたりのたとえのわかりやすさも、やはり前段があってのもの。

 

吽字義

これは空海先生のサンスクリット語講座といってもいいくらい、言葉の意味の分解をしてくださっている書。ヨガのクラスでも出てくるような、たとえばバンダはバンダナとおなじ意味を持つ「縛る」です、というようなことが書かれています。わたしはバガヴァッド・ギーターで「行為の結果」という意味で出てくる「karma phala」などの pha を空海さんがすでにこんなふうに説明していたのか! ということにおどろきました。

すべてのものは堅くなく聚沫(しゅうまつ / あぶく)のようなものですというのが phena(聚沫)の頭字の pha の字義でありますから…(以下略)
(ニ 字義 より)

アートマンもマナスもとっくに解説済み。言う・話すの va も、静寂・平穏・シャーンティの sha もとっくに説明済み。平安時代に説明済み。だったのね…。

 


ほかにも、日本の僧侶だからこそ出てくるたとえのチョイスなど、サンスクリットの原文で辞書を引きながら書物を読んでいる人にはしびれる要素が多いのではないかと思います。(微細さのたとえに胡麻とかえんどう豆とか出てくる!)それにしても平安時代に、なんでここまでわかってたのだろう。わかる人にはわかるものがあるにしても、どうにもカリスマのひと言では片付けられない言語力。
この本を読んだら尊敬を通り越して「なんなの!」という感想しか出てこなくなりました。

 

 

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